鴨着く島

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秦氏と隼人

2021-04-09 13:07:40 | 古日向の謎
『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』は弘仁6(815)年に編纂された平安時代初期の畿内を中心とする氏を網羅した歴史書である。編纂の責任者は万多親王(桓武天皇の第五皇子)で、編纂委員として右大臣・藤原園人や参議・藤原緒嗣らが名を連ねている。

氏姓については、すでに允恭天皇の時代に元末の弁別などが乱れていたのを「探湯(くがたち)」で正したり、その後も皇極天皇の時の「乙巳の変」では国記が焼亡したりして、なかなか正しく伝わってこなかったのだが、この『新撰姓氏録』では知識人の力を借りてあまねく旧史・古記を探り、ようやく編集することができた――このような内容が序文に記されている。

平安京を左京・右京に分け、さらに山城・大和・摂津・河内・和泉・未定の地域、併せて8つの地域にわたってそこに暮らす氏を網羅している。

特徴的なのが、それら地域ごとに氏の出自について「皇別」「神別」「諸蕃」と区別していることである。「皇別」は天皇家の一族であり、「神別」は皇族以外の血統でさらに天神・天孫・地祇と細分されている。「神別」の中に天孫とあるが、この天孫は「皇孫」ではなく、皇孫と同じ由来を持つが、古い時代に枝分かれした系統で、隼人の種族「大角(おおすみ)隼人」なども天孫に分類されている。

分かりやすいのが「諸蕃(しょばん)」であり、この分類に入るのはことごとく渡来人系の氏なのだ。この諸蕃の氏の数は374氏で、全体の1182氏の約三分の一を占めている。(※皇別は302氏、神別は481氏)

面白いのが「山城国諸蕃」の冒頭に紹介されている「秦忌寸(はたのいみき)」である。秦忌寸は太秦公(うずまさのきみ)と同じなのだが、「うずまさ」と読む理由がこの秦忌寸の項にかなり詳しく書かれている。以下に全文を掲げる。

 山城国諸蕃

  漢(※大陸由来ということ)

【 秦忌寸 太秦公宿祢と同じ祖、秦の始皇帝の後なり。物智王・弓月王、誉田天皇(応神天皇)の14年に来朝し、上表し、また国に帰りて127県の民を率いて帰化せり。並びに金銀玉白布など種々の宝物を奉りき。天皇愛でたまいて大和の朝妻間の掖上の地を賜いて居らしめたまいき。男、真徳王、その子、普洞王。
 オオサザキスメラミコト(仁徳天皇)の御世に、姓を賜いて「波多(はた)」という。今の「秦」の字訓なり。次は雲師王、次は武良王。
 普洞王の子「秦公酒(はたのきみさけ)」、オオハツセワカタケ(ル)スメラミコト(雄略天皇)の御世に申しけらく「普洞王の時に、秦氏すべて掠め取られ、今見る者10に1つもあらず。請うらくは、勅使を遣わして召し集め給わんことを。」と申す。
 天皇、小子部雷(ちいさこべのいかずち)を遣わし、大隅阿多の隼人等を率いて、召し集めしめ給い、秦氏92部、1万8670人を得てついに秦公酒に賜いき。
 ここを以て(秦公酒は)秦氏を率い、養蚕・機織りして、(絹布を)箱に盛り、御門に詣でて貢進せり。(絹布を)丘の如く、山の如く朝廷に積みければ、天皇悦ばせたまいて、特に勅命して「うずまさ」という名を賜いき。是は盈積みて利益ある義なり。
 諸々の秦氏を使いて八丈の大蔵を宮の側に構えて、その貢の物を納めしむ。故に、その地を名付けて「長谷朝倉宮」という。この時初めて大蔵官員を置き、秦公酒を長官となす。秦氏等が子孫、或いは住居に就き、或いは行事に拠り、分かれて数多腹となる。
 天平20(748)年、京畿に在る者は、みな改めて「伊美吉(いみき)」の姓を賜いき。 】

秦末・漢初の動乱で半島へ渡った秦王朝の一族が、応神天皇の時に127県の人民を率いて日本にやって来たが、その後チリヂリになってしまった。

天皇の代にして5代後の雄略天皇の時代に、秦氏の一族である「秦公酒」という人物が、天皇に「秦氏は応神天皇の時に帰化して以来、あちこちに分散しています。勅命を以てわれら一族を集めていただけないか」と懇願したところ、天皇は側近の小子部雷(ちいさこべのいかずち)に命じ、大隅隼人・阿多隼人等を使って方々から秦氏を集めさせた。

そうしたら何と、92の村(部)落から18670人もの秦氏一族が集まった、というのである。

この大人数を秦公酒に率いさせ、養蚕に励み、生糸を採り、絹布を織ってみたところ、貢進の絹布が御所の庭に山のようにうずたかく積まれるまでになった。

そこで名を「太秦(うずまさ)」と与え、また、秦氏の多く住んでいるところも「うずまさ」になったという話である。

京都の右京区に今でも太秦という地名が残るが、ここは映画村(東映・大映・日活)で有名である。

秦(忌寸)氏のうち讃岐の永原忌寸一族はのちに「惟宗氏」を名乗り、この惟宗氏は有力な戦国大名島津氏のルーツでもあるのだが、上の姓氏録の外題にもあるように「大蔵官員」(財務官僚)や明法博士にも抜擢されたりした知識人の一族である。

さて最初に「面白いのが」、と断ったのには訳がある。それは雄略天皇が散らばってしまった秦氏を捜索させるのに側近の「小子部雷(ちいさこべのいかずち)」という人物が「大隅・阿多隼人」を使役して行った――という箇所である。

小子部雷とはどんな人物なのか。またこの人物と隼人の関係、そして秦氏と隼人の関係は何なのか、が問われるところだ。

まず小子部雷について・・・
 小子部という姓が付けられた説話が同じ雄略天皇の事績の中に在る。
 それは雄略天皇紀の5年の3月の条に、天皇が皇后と一緒に養蚕を勧めようという時、側近の「スガル」という人物に、「国中から蚕(こ)を集めてまいれ」と命じたら、間違って「子」を集めて来てしまい、天皇から大笑いされた。天皇はスガルに子どもたちを養うように指示し、スガルに「小子部」という姓を与えた。
 のちにスガルに三諸岳(三輪山)の蛇神を捕えさせた時、大蛇を捕えて天皇に見せたが天皇は爛爛と輝く大蛇の眼に恐れをなしてしまった。それで大蛇を平気で捕まえてきたスガルには「雷」という名を与えている(改名した)。

次に小子部雷と隼人の関係・・・
 これは直接言及するものはないが、ひとつだけ見えているものがある。
 それは古事記の神武記に見えている系譜の中に在る。
 古事記では神武天皇が橿原に王朝を築いたあと、南九州に置いてきたアイラツヒメに代わる皇后としてイスケヨリヒメを召し入れたのだが、皇子が三人生まれている。長男をヒコヤイ、二男をカムヤイミミ、三男をカムヌマカワミミというが、二代目の綏靖天皇になったのは三男のカムヌマカワミミだが、二男カムヤイミミの子孫の中に著名な意富臣(太安麻呂の太氏)に並んで「小子部連」がいる。
 神武天皇の時代にはまだ小子部はなく、別姓だったのだろうが、20代あとの雄略天皇時代にもカムヤイミミの子孫として残り、天皇の側近として仕えていたということである。
 さてカムヤイミミは南九州から「東遷」した古日向=投馬国王家の王名としての「ミミ」を持つわけで、その子孫であれば南九州とは親近性が高く、したがって同じ南九州に出自を持つ隼人を差配し、指揮できる立場にあっておかしくはない。

最後に、隼人と秦氏の関係について・・・
 スガル(小子部雷)が同じ南九州にルーツを持つ隼人を差配しておかしくないとしたが、彼が方々に散らばった秦氏一族を探し出す役に隼人を使ったのはどういうわけだろうか。
 秦氏一族が渡来したのは応神天皇の14年とされるが、私は応神天皇は南九州(古日向)の出身と見るので、朝鮮半島への対高句麗戦出兵のリーダーだったはずで、その出兵の主だった戦士たちは南九州の「鴨族」だったと考えている。彼らは南九州と半島を往来できる水運を持っており、この水運力無くしては半島へも半島からも往来はできなかった。
 弓月氏が半島から127県の人民を日本列島へ率いて来た時、おそらく南九州鴨族(のちのクマソ・ハヤト)の船団を利用したのだろう。
 また、渡来人が畿内で定着するにあたってもハヤトの差配(行動力)によるところが大きかったと思われる。言わば、隼人と渡来人は「顔見知り」だったのではあるまいか。だから秦氏の捜索に隼人が任命されたのではないかと思われる。

※(注)雄略天皇の当時「隼人」という名称はまだなかったが、『新撰姓氏録』が編纂された815年頃にはすっかり定着していたので、さかのぼって隼人呼称が使われた。では何と呼ばれていたのか。おそらく「阿多(あた)人」「阿比良(あひら)人」「曽津間(そつま)人」ではなかったと思われる。
 最後の「そつま」の「そ」が脱落し、魏志倭人伝に「投馬(つま)」として記載されたのが、邪馬台国連盟7万戸に匹敵する5万戸の大国「投馬国」であった。この国は朝鮮半島の帯方郡から南へ水行20日の南九州(古日向)にあり、王(官)名を「ミミ」、女王(副官)を「ミミナリ」と言った。
 この古日向で何らかの天変地異(火山噴火か大地震による大津波、そして飢饉)があり、住民の大移動が敢行されたのがいわゆる「神武東征」であり、「東征」というよりは「移住」に近いものであったろう。その統率者は「神武天皇」だが、私はこの神武天皇の実体は皇子として記されている「タギシミミ」だったと考えている。
 また日本書紀は記さないのだが、古事記には記されているもう一人の皇子「キスミミ」は母のアイラツヒメとともに大隅に残ったと思う。この子孫から応神天皇が生まれ、時代は下って西暦700年の頃に大隅の大首長だった「肝衝難波(きもつきのなにわ)」が出たとも考えている。