140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

沈黙の教え[維摩経]

2015-01-04 00:05:52 | 仏教
鎌田茂雄「沈黙の教え[維摩経]」という本を読んだ。
「文殊は一切の真理には、言葉もなく、説明しようもなく、示しようもなく、識りようもなく、
すべての問答から離れているところがあります、といいました。そのところを『不二法門に入る』と説いたのです。
他の菩薩たちは一生懸命に二つに対立するものの不二なる点を説き明かしたのに対して、
文殊は一切の真理は、言葉で説明しようもなく、言葉によって知りようがなく、あらゆる問答から離れたところが
『不二法門』であると説きました。あらゆる分別を離れたところ、知性によっては把握できないもの、
概念によってはどうしても入ることができないもんのが『不二法門』であることを喝破したのでした。
このように、ぎりぎりの答えを出した文殊が最後に維摩に質問しました。
『わたしたちはみな、自分の考えを話しました。今度はあなたの番です。不二法門に入るには
どうすればよいですか」と。
維摩は何と答えたでしょうか。黙然として答えなしでした。
・・・
維摩は説明できないものは絶対に説明しなかった。ただひたすらに黙して一語も発しなかった。
この一黙の深さと重みは計り知れないものがあります」
ここが、維摩経で一番有名なところらしい。

「人間の思惟のはたらきの長所はものごとをどこまでも区別することにありますが、区別することは
必然的にものごとを対立的に考えるようになります」
そのようなことが書いてあった。そこで沈黙を良しとしているらしい。

思惟とはしかし区別することだけではない。
「似ているように見えるものはどのくらい異なるのか」
「異なるように見えるものはどのくらい似ているのか」
そのような二つの側面の揺り戻しがある。
弁証法では、正―反―合のプロセスで概念が発展する。
思惟は区別だから考えないことが真理というのはどうかと思う。
認識による主客分離によって人間が不幸になってしまうので無為自然のままに生きようというのならまだわかる。
「説明できないこと」を態度で示したからといって感嘆すべきものは何もない。
おそらく人々はその「手法」に感嘆しただけではないかと思う。

「性欲も食欲も人間の中に流れている原生動物以来の業の発動です」
そのようなことが書かれていた。
性欲も食欲もない動物なんて生き物ではないだろう。
時々、仏教が相手にしているのは争いのない世界、生き物のいない世界のような感じがする。
それはつまり沈黙が支配する死の世界かもしれない。

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