140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

現代文 正法眼蔵2

2015-01-25 00:05:05 | 道元
「行持している時間としての『今』は、形而上の有ではなく形而上のものではない、行持の今とは、
人の自発性としてする修行であるから自分から離れたりやって来たり出たり入ったりするものではない、今の連続なのだ」
ここで訳者はハイデッガーを引用している。
「時間の存在とは、今である。しかし、おのおのの今は<今や>もはやすでに《無く》、
あるいは未だ《無い》ので、《今》はまた、非存在とも捉えられる。時間は《直観された》生成である、
とは、思考される移行ではなく、今の連続という形で立ち現われる移行を意味している」
そんなことが書かれている。
「時間とは○○である」「今とは○○である」と語るのは不毛だ。
時間は経験を語るための形式のようなものだから、本来、経験を語るための言語が形式について語ることは出来ない。
物理学の方程式も空間と時間という形式を使って質量や電荷の関係を述べているのではないかと思う。
たいていの場合、時間について語れることは「今の連続」ということしかない。
「《直観された》生成」だか何だか知らないが「今の連続」とは「私は生きている」とか「私は存在する」というのと
同じことではないかと思う。存在しない私は今を語ることは出来ない。
「今・此処・私」は分離することは出来ない。
「今」は時間であり、「此処」は空間であり、合わせて客観の形式であり、
「私」は主観の形式であり、これら形式は分離出来ない。

「人が考えているとき、それが何であるかが認識されるには言語が現われなければならないのだが、
概念言語は客観性を本質とする、音声言語は主観性を本質とする。言語による認識の超越はこれらの超越である」
そんなことが書かれていた。
カントの超越論は18世紀のものであり、その時にはまだ「言語」についての言及はなかったと思う。
「それが何であるかが認識されるには言語が現われなければならない」としっかり原文に書いてあるのか、
18世紀以降の西洋哲学を知っている訳者がそのように読み取ってしまったのかはわからない。

「古人は云った、仏法を重んじるならば、たとえ霜柱であろうと、たとえ燈籠であろうと、たとえ諸覚者であろうと、
たとえ野狐であろうと、鬼神であろうと、男であろうと女であろうと、大いなる仏法を保ち、
その真髄を得たものであるならば、身心を仏法に乗せる場として、自己の無量の時間のなかにも仕えるのである。
自己の身心などどうでもよいのである、己れの身心などは世界中に生えている稲や麻や竹葦のようなものだ。
己れの身心に囚われているならば、仏法に出遭うことは稀である」
そんなことが書かれていた。
「己れの身心などは世界中に生えている稲や麻や竹葦のようなものだ」という言葉にはどこかほっとするものがある。
私たちは競争社会での成功が幸福であるという価値観で子供を教育する。
新聞もインターネットもそのような価値観で溢れている。
その結果、「オレが」「俺が」「私が」「自己主張が」「自らの存在の証が」という考えが染み付いてしまう。
「前向き」「主体的」「生産的」という言葉が己れの存在の拡張に貪欲な人々に取り憑いている。
肥大化した自我が際限の無い富の蓄積を、地位の向上を、名声を、支配を、徳を、求めている。
「世界中に生えている稲や麻や竹葦」がいっせいにそんなことを目論んだなら大変なことになるのだが
実際のところそうなので、世界は「己れ」がせめぎ合う修羅場と化している。
「己れの身心などは世界中に生えている稲や麻や竹葦のようなものだ」という言葉には
そんな世界を一蹴してしまうような響きがある。
私はこの言葉についていこう。