140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

葬られた王朝 古代出雲の謎を解く

2015-01-11 00:05:13 | 古事記
梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」という本を読んだ。

「・・・我々は古代の日本が現代の日本とは甚だ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。
それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は、太平洋沿岸ではなく日本海沿岸であったということである」
カムヤマトイワレビコのいた九州、オオクニヌシの出雲、
縄文時代から玉(ヒスイ)の原産地であり、その富により周辺を支配していたと言われる越の国、
私たちが古代と呼んでいる時代に大陸から日本に人々が移住してきたと推定されるので
文化的中心は自ずと日本海沿岸になるのだろうと、そんなことはあたり前だと思うのだが、
心の奥底では太平洋ベルト地帯に固着してしまっているようだ。
長い間、慣れ親しんだ考え方を変えるというのは、なかなか出来ることではない。
そして表題の出雲王朝だが、これはなんとなく出雲地方に王国があったのだと想像してしまうが、
実際には出雲を基点とした王国がヤマトと呼ばれる近畿地方までを支配していたということらしい。
「オオクニヌシは、兄弟神を征伐して、めでたく出雲という大国の王を継いだ」
「彼はそれだけでは満足せず、ヌナカワヒメという女王が支配する越の国を征服しに行くのである」
「オオクニヌシは、日本海沿岸だけでなく、近畿、四国、山陽の地までも支配下に置いていたと思われる」
彼は日本(葦原中つ国)を支配していた王なのだ。
オオクニヌシは「大国主」なんであたり前のことかもしれない。
その王国を「国譲り」によって天皇(スメラミコト)一族が支配するようになったと
古事記にはそういうことが書かれているということになる。
もともと王朝というよりは王国なのだろうが「王朝」と書いた方が読者の食い付きが良く本が売れるのだろう。
「葬られた」ということだが出雲王国にしたって越の国を征服したのだから
古代の日本でそのような争いが続いていたとそういうことでしかない。
誰かが意図的に葬ったわけでもないのだ。

「彼はアイヌ社会のタブーを知らなかったのである。写真に写っているのは人間の似姿であるが、
その似姿に呪文をかけると、その人間の生命も失われるという信仰がアイヌの社会にあった。
アイヌ文化は縄文文化を色濃く残す文化であり、縄文時代の日本の社会にもそのような信仰があったに違いないと私は思う。
縄文時代には、動物の像や土偶のように死者の像があるが、生きている人間の像がないのはそのような理由によるのであろう。
とすれば、鏡は人の似姿をそのまま映すものであり、それは縄文の信仰に生きる人間には
計り知れない恐怖を与える呪器であった」
三種の神器のひとつである鏡はもともとは呪器であったということらしい。
アイヌや縄文時代の日本に限らず、呪術の時代では髪の毛や爪に呪文を掛ければ相手を倒せると考えられていた。
その信仰の中では鏡は最強の呪器ということになる。
呪術の時代が過ぎて信仰が迷信と見做されるようになった頃には呪器の性格は失われてしまっているのだろう。
その頃には鏡は太陽(アマテラス)の象徴であるといった別の理由が考え出される。
時代に応じた信仰があり信仰に応じて説明は変化して行く。

「それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。
勾玉はそのようにあの世とこの世を永遠に往来する魂を表すものであると考えられる。
そのような勾玉は、やはりどこか獣の形をしているのであろう。人間をはじめ全ての獣の死・復活を願う祈りがこめられている。
そして、その勾玉がヒスイでできているとすれば、それは永久の生を与える呪力ををももっていると思われる」
古代の人々にとっての魂は、私たちが心とか精神と呼んでいるものとは異なっているようだ。
魂が去ることで動物も人間も死んでしまうと彼らは考えていたようだ。
それも呪術的な信仰であり勾玉という神器もまた呪器であったということになる。
つまり縄文時代から断ち切られていない文明を
私たちは維持していることになる。

「このように『古事記』では、外祖父であり、権謀術数にすぐれた卓越した藤原不比等を思わせる神々
及び藤原氏の祖先神、あるいは新たに祖先神とされる神々がもっぱら活躍するわけである」
「そして繰り返すようだが、『古事記』は『日本書紀』とは違って、神話の話に力点がある。
しかもその神話に出てくる神々は、当時活躍していた氏族の祖先神であり、その祖先神の評価によって
氏族の未来が左右されるのである。神代において天つ神の敵となった祖先神や何の功績もない祖先神を持つ
氏族は、律令社会において繁栄の見込みがないのである」
「古事記」の成立には当時の最高権力者であった藤原不比等の意図が絡んでいるのだと著者は主張する。
「古事記」については、いろんな人のいろんな解釈が勝手気ままに書かれていて、
どれもそれらしく聞こえるが、どれが信じるに足るものなのかよくわからない。
どの説が正しいか証明することも出来ないが、どの説が間違っているのか断定することも出来ない。
それにどれが正しいかを決定する必要もない。
たとえば藤原不比等が改竄した部分現代の心理学者が振り回されているかもしれない。
一族の千年の繁栄を願った不比等の作り話をを普遍的無意識の表れと解釈しているかもしれない。
そんな昔のことは本当だったか嘘だったかよくわからない。
今こうして生きていることも虚であるか実であるか、夢か覚醒しているのかわからない。
荘周が胡蝶となった夢を見たのか、胡蝶が荘周となった夢を見たのかわからない。
今という時代もやがては時の流れの中に埋没してしまう。
僕たちはそんなふうにして生きている。

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