「十悪として殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見が挙げられるが、
それぞれを行為・現象に還元すれば、殺生は生きものの現象である、偸盗は物などの移動である、
邪淫は生殖である、妄語・両舌・悪口・綺語は言葉である、貪欲・瞋恚・邪見はさまざまな煩悩の
現われである。このように還元された行為は悪と定義されない」
そのようなことが書かれていた。
ミリエル司教は盗まれた銀の食器をジャン・ヴァルジャンにあげたのだと言っていた。
それは物の移動であり悪ではない。
個体が生きて行くためには食わなければならないので殺生は避けられない。
種族が存続して行くためには生殖は避けられない。
生き物はそのように作られている。それを悪と呼ぶのであれば生き物自体が悪ということになる。
愛のあるセックスの場合は悪にはならないので罪から逃れることが出来ると
キリスト教であればそんな論理をこねくり回すかもしれない。
私たちが私たちの行為であるとか、生命現象を悪と見做したがる理由は何なのだろう?
私たちは食べ物や異性を求める身体自体を不自由なものとして憎んでいるのだろうか?
そんなものがなければ心は自由に飛翔できるのになどと考えているのだろうか?
集団での生活を維持するために必要とされた悪の他に
自らを束縛する欲望の数々を私たちは悪と呼ぶ。
「趙州真際大師は衆に示して云った、『汝がもし一生禅院を離れないならば、座禅して十五年のあいだ
言葉を発しなくとも、人は汝を啞者と喚ぶことなく、以後は諸覚者もまた汝に及ばないだろう。』
そうであるから、十五年のあいだ禅院に在れば、幾歳の霜雪を経るわけだが、さらに一生のあいだ
禅院を離れずにする修行と努力を想えば、その座り切った座禅は、それなりの得られた言葉である」
そんなことが書かれていた。
私たちは「失われた十年」などと言って経済成長率の低迷を嘆く。
個人は睡眠時間を削って業績改善に繋がるようなあらゆる努力を尽くす。
きっと私たちは「無駄に時間を過ごした」と他人に思われたくないのだろう。
売上げと利益を拡大し、地位と所得を向上させることで他人の謗りを免れることが出来ると考えているのだろう。
そのような生き方しか許されていない身の上にあっては「禅院で一生を過ごす」という考え方に馴染めない。
「そんなことをして何になるの?」「一生を棒に振ってしまうのでは?」などと考えてしまう。
だが彼らから見れば、一生を棒に振っているのは私たちなのだろう。
私たちがどれほどビジネスに尽くしたところで「それなりの得られた言葉」は得られない。
成功する者は器が大きいといったロジックを振り回すことで
ビジネスだけでなく「人間的にも成長」したと言い張ったところで
その「人間的」というのがいったい何なのかはよくわからない。
おそらくは優越を感じたいだけ、優越感を裏付けたいだけなのだ。
結局のところ「経済的な成功」を手にしたなら他のものも手に入れることが出来るというのが
「資本主義社会」のわかりやすいところだ。
おそらく「座り切った座禅」というのは、そのような価値観を「座る」ことだけで超えている。
彼らは別に羨ましくもなんともないのだ。
そのことだけでも及ばない。
「諸覚者の覚りが言葉となって現われる、それが仏教である。それは仏祖が仏祖のために説くのであり、
教えが正しく伝わるために説くのである」
そんなことが書かれていた。
「それが仏教である」と言われても私にはわからない。
仏祖にしかわからないのであればわかるわけがない。おそらく一生わからない。
衆生には「念仏を唱えるだけ」の仏教しか理解できないのだろう。
「諸覚者の覚りが言葉となって現われる」仏教は宗教ではなく
「念仏を唱えるだけ」の仏教が信者を有する宗教として認知されている。
正法眼蔵は仏祖から仏祖に正伝されるものであるから修行を積んでも凡夫には理解できない。
そのような教えはいったい誰のためのものなのかよくわからないが
いつの時代も求め続ける人々がいる。
それぞれを行為・現象に還元すれば、殺生は生きものの現象である、偸盗は物などの移動である、
邪淫は生殖である、妄語・両舌・悪口・綺語は言葉である、貪欲・瞋恚・邪見はさまざまな煩悩の
現われである。このように還元された行為は悪と定義されない」
そのようなことが書かれていた。
ミリエル司教は盗まれた銀の食器をジャン・ヴァルジャンにあげたのだと言っていた。
それは物の移動であり悪ではない。
個体が生きて行くためには食わなければならないので殺生は避けられない。
種族が存続して行くためには生殖は避けられない。
生き物はそのように作られている。それを悪と呼ぶのであれば生き物自体が悪ということになる。
愛のあるセックスの場合は悪にはならないので罪から逃れることが出来ると
キリスト教であればそんな論理をこねくり回すかもしれない。
私たちが私たちの行為であるとか、生命現象を悪と見做したがる理由は何なのだろう?
私たちは食べ物や異性を求める身体自体を不自由なものとして憎んでいるのだろうか?
そんなものがなければ心は自由に飛翔できるのになどと考えているのだろうか?
集団での生活を維持するために必要とされた悪の他に
自らを束縛する欲望の数々を私たちは悪と呼ぶ。
「趙州真際大師は衆に示して云った、『汝がもし一生禅院を離れないならば、座禅して十五年のあいだ
言葉を発しなくとも、人は汝を啞者と喚ぶことなく、以後は諸覚者もまた汝に及ばないだろう。』
そうであるから、十五年のあいだ禅院に在れば、幾歳の霜雪を経るわけだが、さらに一生のあいだ
禅院を離れずにする修行と努力を想えば、その座り切った座禅は、それなりの得られた言葉である」
そんなことが書かれていた。
私たちは「失われた十年」などと言って経済成長率の低迷を嘆く。
個人は睡眠時間を削って業績改善に繋がるようなあらゆる努力を尽くす。
きっと私たちは「無駄に時間を過ごした」と他人に思われたくないのだろう。
売上げと利益を拡大し、地位と所得を向上させることで他人の謗りを免れることが出来ると考えているのだろう。
そのような生き方しか許されていない身の上にあっては「禅院で一生を過ごす」という考え方に馴染めない。
「そんなことをして何になるの?」「一生を棒に振ってしまうのでは?」などと考えてしまう。
だが彼らから見れば、一生を棒に振っているのは私たちなのだろう。
私たちがどれほどビジネスに尽くしたところで「それなりの得られた言葉」は得られない。
成功する者は器が大きいといったロジックを振り回すことで
ビジネスだけでなく「人間的にも成長」したと言い張ったところで
その「人間的」というのがいったい何なのかはよくわからない。
おそらくは優越を感じたいだけ、優越感を裏付けたいだけなのだ。
結局のところ「経済的な成功」を手にしたなら他のものも手に入れることが出来るというのが
「資本主義社会」のわかりやすいところだ。
おそらく「座り切った座禅」というのは、そのような価値観を「座る」ことだけで超えている。
彼らは別に羨ましくもなんともないのだ。
そのことだけでも及ばない。
「諸覚者の覚りが言葉となって現われる、それが仏教である。それは仏祖が仏祖のために説くのであり、
教えが正しく伝わるために説くのである」
そんなことが書かれていた。
「それが仏教である」と言われても私にはわからない。
仏祖にしかわからないのであればわかるわけがない。おそらく一生わからない。
衆生には「念仏を唱えるだけ」の仏教しか理解できないのだろう。
「諸覚者の覚りが言葉となって現われる」仏教は宗教ではなく
「念仏を唱えるだけ」の仏教が信者を有する宗教として認知されている。
正法眼蔵は仏祖から仏祖に正伝されるものであるから修行を積んでも凡夫には理解できない。
そのような教えはいったい誰のためのものなのかよくわからないが
いつの時代も求め続ける人々がいる。