140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

バビロンに帰る

2012-08-12 16:52:28 | フィッツジェラルド
フィッツジェラルド「バビロンに帰る」を読んだ。
小説を読むのは約1ヵ月ぶりになるが1ヵ月前に読んだのもフィッツジェラルドだった。
「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」という副題がついていて
以下の5つの短篇が収められている。

ジェリービーン
カットグラスの鉢
結婚パーティ
バビロンに帰る
新緑

どれもあまりハッピーな話ではない。
「彼がそれまで活躍の舞台としてきた商業誌は、暗い世情から読者の目をそらすために、
明るいハッピーエンドの物語を求めていた。しかし慢性的な不幸にとりつかれつつある
彼に、いったいどんな『幸せな物語』を書くことができるだろう」と
訳者(村上春樹)は書いている。

そして「結末は救いがなく、むなしく暗い。しかしそれと同時に、
そこには異様なばかりの美しさが漂っている」という訳者の意見に
一部の人々が、そのような「非ハッピーエンド」な小説を読もうとする理由を
見つけることができると思う。

私たちは不幸を求めているのではなくて美しさを求めているのだろう。
暗い世情から目をそらすためのファンタジーではなく
受け入れるべきリアリティを求めているのだろう。
そしてまた文章の美しさといったものが『幸せな物語』に宿ることが少ないと
いうことを私たちは知っている。

資本論⑨

2012-08-11 21:41:35 | マルクス
岩波文庫の9巻目で資本論全体が締めくくられる。
「第七篇 諸収入とその源泉」が納められているがページ数は100ページほどであり、
その後にエンゲルスが書いた補遺と訳者の解題が記載されている。

ここでは、ほとんど扱われることがなかった「競争」について記載があるが、
「競争はただ利潤率における不等を均等化しうるにすぎない」
(岩波文庫第9巻、86ページ)と書かれているだけだ。
資本家同士が競争を行い、特定の資本家が競争に敗れた資本家の資本を吸収し、
資本が集中されてゆくといったことが示されてはいるが、
その詳細なプロセスは記載されてはいない。
「競争は利潤率を均等化する」という程度のことで済まないことを
著者は認識しているはずだが追求していない。
それは執拗に同じことを繰り返して記述する本書のスタイルに合致していない。
「競争」を語ることは、それほどまでに困難なことなのだろう。

未完に終わった最終章「諸階級」について訳者は次のように書いている。
「いかにして資本主義の量的発展の中に、質的発展の、
つまり、社会主義社会への飛躍を準備しているか、資本主義の内的矛盾が、
その運動法則が、どのようにして社会主義社会実現の条件であるかを明白にする章であろう」
資本論は「悪魔の書」であるとレビューに書いていた人もいるが、
実際には社会主義やら革命といったことについては、ほとんど記載されていない。
左寄りな訳者が上述のようなことを書いているのだろう。
階級闘争が終わって平等な社会が実現するといったことを信じる理由は不十分であり、
王か貴族か武士か資本家か知らないが、およそ歴史というものは権力闘争の繰り返しであり、
支配者が入れ替わっているだけだろう。
結局のところ支配者階級と被支配者階級は常に存在を続ける。
そのことは社会主義というユートピア思想が空想であることを示している。

エンゲルスは、マルクスの葬儀で
「人間は、政治、科学、芸術、宗教等にたずさわるまえに、なによりもまず、
食い、飲み、すまい、また着なければならない」と述べたという。
つまり、経済学がすべての土台であると彼は言っている。
そしてまた自分たちの経済学は迷信や呪いとは異なる科学的なものであると考えている。
一般的には、人文科学、社会科学、自然科学という分野があることになっているが、
観測できない現象、したがって検証できない現象が科学であると
自然科学に携わる人々が考えることはないだろう。
だが、科学でなければ意味がないといったことではないのだし、
客観的に捉えられること以外は思考してはいけないということであれば
私たちの人生は相当に暇でつまらないものになってしまうだろう。
そういうことを考慮していない彼らは妄想に取り憑かれている。

「競争」についても、あまり記載されていないが「欲望」についての記載も少ない。
以前書いたことを繰り返そう。
・欲望は心という現象の一形態である。
・心という主観的な現象は、客観的な現象しか扱えない科学では解明できない。
・一方で欲望は価値を生み出す。
・価値は欲望にもとづくので解明することはできない。
つまり経済学が土台であるということが妄想であると共に
価値を解明することができない経済学は、そもそも土台を持つことができない。
ただ、私は別にそれが無意味だと主張しているのではない。
小説、哲学、宗教、自然科学、経済学について上下関係などないと
自惚れた経済学者に言っておきたいだけだ。

19世紀に搾取されていた労働者が行っていた単純労働に比較して現代の労働は複雑になっている。
生活必需品が主要な生産対象ではなくなり人々の欲望を掻き立てる製品やサービスを
生み出せるような労働者が必要とされている。
その様相をマルクスが見たのであれば資本論は改められるだろう。
現代の資本主義は労働者の創造性を引き出すことの出来ない企業を淘汰してしまう。
単純労働で生産される液晶の価値はどんどん下がってしまった。
他に売るべき製品を持たないシャープは行き詰っている。
どうすれば創造性を発揮することが出来るだろうか?そういうことが問われている。
しかしそのような労働者は非常に限られているのではないだろうか?
所得格差は広がる一方であるが放置してよいのだろうか?
資本主義に何らかの公正さを求めても無駄だ。
なんといっても自己増殖(あるいは右肩上がりの成長)が目的化されているのが
資本主義だから、そこで私たちは問い続けることになる。
本書はそのきっかけになる。答えではない。

資本は剰余価値で説明され、剰余価値の起源は不払労働であるという。
しかし剰余価値は蓄積された富として資本主義の成立以前から存在していると思う。
それは原初の農耕社会から続いている。
その謎を解き明かしたいというのであれば資本を語るだけでは
不十分であると思う。

資本論⑧

2012-08-09 22:19:07 | マルクス
岩波文庫の8巻目は「資本主義的生産の総過程」を扱う第三巻の続きで地代について書かれている。

地代も利子と同様に「資本によって産み出された剰余価値の一部」として取り扱われている。
しかし一方で、「与えられた平均利潤を超えて農業において生産された剰余価値がどの程度まで
地代に転化され、どの程度まで平均利潤への剰余価値の一般的均等化に参加するかは、
土地所有にかかるのではなく、一般的市場状態にかかる」(岩波文庫第8巻、253ページ)といった
記載もあり、実際のところ何が正しいか目測を立てるのは難しい。

そもそも「資本」とは何であるか?
それについて延々と述べられいるわけだが何か定義があるわけではない。
そのような単純な問いは経済を学んでいる人は軽々しく口にすることはできないだろう。
だだ、素人には恐れるものなど何もないので好きに書かせていただく。

貨幣資本、生産資本、商品資本
不変資本、可変資本、固定資本、流動資本
英語でcapital、独語でkapital
ググってみると「資本とは事業活動などの元手」と書いてあった。
そして剰余価値が不払剰余労働から成ると繰り返される主張を含めて考えてみると
資本とは「富」あるいは「蓄積されたもの」であると思える。

原始的な狩猟社会においては蓄積されるものは何もなく、その日暮らしだ。
人間以外の動物の暮らしもそのようなものだ。
冬眠前のリスが餌を蓄えることはあっても、それを富として認識するわけではない。

原始的な農耕社会によって蓄えられた穀物が「富」の期限であると思われる。
つまり必要労働とは生きるために消費する穀物を生産するのに必要な労働であり、
剰余労働とは蓄積できる穀物を生産するのに使用する労働とみなせるだろう。
そうすると穀物あるいは富を独占する王や豪族は不払剰余労働の搾取者であり得る。

奴隷社会、封建社会、資本主義社会と歴史と共に形態は変わってゆくが
剰余価値(あるいは富)をめぐって人々は争い続けてきたし今でも争いは続いている。
そして富をめぐる争いは人々を支配するための争いでもある。
支配があってこそ搾取することが出来る。逆に支配者となった者は搾取を始めることだろう。
そのようにして社会主義革命に成功した人々は自分が支配者となり
自分が搾取する者へと変貌してしまうことから逃れられなかった。
私はそう思う。

まもなく消費増税法案が成立するという。
誰が搾取しているのだろうか?

資本論⑦

2012-08-05 14:38:05 | マルクス
岩波文庫の7巻目は「資本主義的生産の総過程」を扱う第三巻の続きで利子について書かれている。

「利子は、元来、機能資本家なる産業家または商人が、自己の資本ではなく借入れた資本を
充用するかぎり、この資本の所有者にして貸し手である者に支払わねばならない利潤、
すなわち剰余価値の一部分にほかならないものとして、現れるのであり、
元来そういうものなのであり、また現実にもそうであるほかないものなのである」
(岩波文庫第7巻、60ページ)

商売をするには資本が必要であり、そこで得られるであろう利潤は
利潤(剰余価値)=企業家所得+利子、という表現によって資本論に組み込まれる。
しかしながら高利貸は資本主義的生産が発生する前から存在していたし
恐慌時の信用収縮に伴う利子率の上昇を、この表現によって説明することもできない。
商品の供給過剰による値崩れを剰余価値が不払賃金によるものだという理論が説明できないように
利子が剰余価値の一部であるという説明も現象を説明し得るものではない。

資本論のおもしろいところは、そのような標準理論を提唱しておきながら、
それに相反するような現象を数多記載しているところだと思う。
著者自身がどこまで理論を信じていたのか読んでいて疑問を感じさせるように
著者が誘導しているような気がする。

ここでは約10年毎に恐慌が繰り返されてきた様子が書かれている。
恐慌発生時には、資本家、商人、高利貸の中にも没落してゆく者たちがいたという。
借り手が支払えないような利子をつけて貸すのであれば最終的に何も返ってこないわけだ。
今ではギリシャを支援することに相当するのではないだろうか?
貸し手は何も返ってこないよりはマシだとしてヘアカット(債務免除)に応じる。

「国債のばあいのように何らの資本も存在しないばあいには・・・」
(岩波文庫第7巻、224ページ)
信用制度についても様々に書かれているが国債に関しては全く奇異であると思う。
何もないところから金銭を生み出すというのは錬金術にも等しい。
貨幣資本も資本であるからには自己増殖が目的化され
何らの資本も存在しない国債を買ってまで儲けを得ようとする。
国債というのは、資本の自己増殖欲を利用した錬金術(あるいは国家的詐欺)であると私は思う。
しかし実際に回収しようとしても何も出てこないから、いつかハジけるものだろう。

そうすると国民は騙されているのだろうか?
そう思うのであれば原発に反対するように国債の発行に反対すればよいだろう。

2012年9月に創業100周年を迎えるというシャープは
8/2の取引後に4-6月期の最終損益が1384億円の赤字となったことを発表した。
それで8/3の同社株は一時ストップ安になるほどに暴落した。
液晶に賭けたシャープは液晶の供給過剰とともに衰退してゆくのだろう。
私には19世紀の恐慌により没落していった資本家と重なって見える。
かつて同社の製品を愛用していたこともあるが今では多くの競合製品の中に埋没している。
誰にでも生産できる製品は値崩れしてゆくしかない。
だいたい「世界に誇る亀山モデル」って商品か?

社員5千人を削減することを決めて
「上期に膿を出しながら下期から再生する不退転の決意で臨む」と社長が言ったそうだが、
「膿!!!!!」
こんな発言をする人物に誰がついてゆくのだろう?