140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

3.8 言語と論理

2012-08-18 00:05:05 | 140憶年の孤独
「言語がなければ考えることすら出来ない」というのが事実であるなら
思想の限界は言語の限界によって制限されているのだろう。
そしてまた不適切な言語の用い方は誤解を生むものなのだろう。
「神はあるか」「不死はあるか」といった問題について
「三次元的、ユークリッド的にしか物事を捉えることが出来ない頭脳」は
何も答えることが出来ない。あちらのことは私たちにはわからない。
それでもなお、「神はあるか」と問う者は後を絶たない。
全く信じないか、無条件に信じるか、好きな方を選べば良いと思う。
それが真であるとか偽であるとか誰にもわかりはしない。

「論理哲学論考」によれば「論理」は先験的(ア・プリオリ)なものであるという。
対象と対象の関係を「論理」で結びつけることが「考える」ということなのだろうか?
そして先験的に「論理」が備わっているということであれば
NOT,AND,ORといった接続が先天的に脳に備わっているということなのだろうか?
ニューロン相互の接続はもっと複雑なもののようだから
そのハードウェア的な(先験的な)接続が「論理」であると考えてよいのだろうか?

「論理」の最小単位はNOT(否定),AND(かつ),OR(または)に他ならない。
コンピューターのソフトウェアもハードウェアも「論理」を組み合わせることで複雑な処理を行う。
そうするとコンピューターはア・プリオリに「論理」を備えているのだから
既に「考えている」ということになるのだろうか?
今、こうしている瞬間、私は「考えた」ことを書こうとしているのだけれど
その瞬間を捉えることは決して出来ない。
ただ、私は「言語」と「論理」を使って「考えている」のだということに気がつく。
コンピューターは「言語」を用いずに「論理」だけを適用する。
彼は「論理」を適用している対象が何であるかを知らない。
そうするとやはり「考えていない」のだろうか?

そして「論理」が接続であるとしたなら「言語」の物理的なイメージは何だろう?
記号と像を結びつけるものとして個々の名詞があるのだろうか?
記号はビット表記のように複数のニューロンで扱われ
像もビット表記として複数のニューロンで扱われるのだろうか?
個別の入力に応じて特定のニューロンが発火するといった現象が度々報告されたり
ある活動をしている時に脳の特定の部位が活発になると報告されたりするが
私たちは「言語」を可能にする脳の仕組みなんて全然わかっていない。
その仕組みは「言語」では語り得ないものかもしれない。
そしてそこで思考停止に至る・・・