140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

進撃の巨人

2014-01-27 00:05:05 | Weblog
「アルプスの少女ハイジ」の頃から飼い慣らされてきた世代には合わないかもしれない。
リアリティと恐怖が見る者を圧倒する。
「弱肉強食」と私たちが語るのは私たちが強者でいられる間だけだ。
流される血、喰われる肉塊、捕食される恐怖・・・
生きたまま人間が喰われることで人格そのものが完全に否定される。
そこでは尊厳であるとか誇りであるとかいった言葉は意味を持たなくなる。
敗者にとっては「この世界は残酷」なのだ。
知性なきその表情、巨人には悪意なんてものはないのだ。みんな笑ってやがる。
そう、私たちが食事をするように彼らは笑う。
表情のない猛獣が人間を喰う時よりも薄気味悪く巨人は笑い人間を喰らう。
死んで行った者には皆、名前があり、名前には生きた証が、その意味が求められる。
ここでは意味そのものが、人が生きる理由そのものが否定される。
意味もなく死ぬことを犬死と言うが、人から見た犬と巨人から見た人が同等となり、
ここでは意味もなく犬のように人が死んで行く。
だが一方で人類の天敵であるという彼らは私たちに似ている感じもする。
「いったい何のために死ぬんだ?」
私たちに食われていった鳥や豚や牛はそんなことを考えただろうか?
「どうして奪われる?」
そうやっていつも私たちが命を奪ってきたからだ。
右翼などとは性質の異なる暴力とすら呼べない暴力、尽きることのない暴力
非力なものに向けられた力は、非力なものにとっては暴力になる。
「誰も自分が悪魔じゃないことを証明できない」
そう、天敵とは彼らではなくて、私たちかもしれない。
巨人と人間との戦いは本当は人間同士の戦いなのかもしれない。
「考えることを放棄している」
「敵は巨人だけじゃない」
そんなセリフもあった。
アメリカ映画的な善も悪もなく日本アニメ的に相対的な善も相対的な悪もない。
アメリカ映画では邪悪な存在がなければ正義を主張することすら出来ない。
感動的なクライマックスを演出することも出来ない。
アメリカという国がテロ支援国家を必要としているように、
アメリカ映画は邪悪な存在を必要としている。
そして日本のアニメでは善と悪を相対的なものとして語ることによって
リアリティを確保しようとしている。
もちろん宮崎アニメはそんなものですらなく、
主義としては反戦であり自然保護であり反科学文明であり、
そこに愛と夢と希望と感動といったディズニー的な要素も織り交ぜてある。
それがダメだということではなく「それでなくてはダメ」だと思う人々のあり様が
その人だけではなく周りの人間もダメにして行く。
宮崎さんが得意とする空中戦のシーンも過去のものとなってしまった。
立体機動装置により展開される構図は尽きることなく変化する。
過去の価値は破壊される時が来る。

そして一方では物語にはつきものの謎がある。
巨人・壁・外の世界・・・それはリアルなものであると共に象徴的な言葉でもある。
主人公の原動力は復讐なのか?探究心なのか?
「どうしてだって?そんなの決まってんだろ。俺がこの世に生まれたからだ!」
なんという情熱的で直接的で観念的なセリフだろう。
その気持ちは私にはよくわかる。

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