140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

お金とか、時間とか、人生とか

2013-12-26 00:33:03 | Weblog
お金というのは尺度なのだろう。
金持ちは貧乏人よりも尺度が大きいが故に優れている。
そうではなくて精神の気高さとか徳がある人が優れていると言うとルサンチマンだと言われる。
お金を得るために、つまりは生きて行くために、人々は日々頭を下げている。
お金があれば、そう卑屈になることもないのだろうと考えたりもする。
顧客満足度を向上させることに経営者は夢中になっている。
その目的のために人々は互いの時間を奪い合っている。
誰かを満足させるためには誰かが奴隷とならねばならない。
ずっと昔からそうだったし、これからもずっと同じだろう。
地位の低い者は地位の高い者に時間を、つまりは命の一部を差し出す。
毎日、命の一部を差し出すことで、結局は命の全てを差し出すことになる。
その連鎖が続くわけだから誰もが時間を奪われる。すなわち誰もが命を奪われる。
そのような考え方は前向きではない、ポジティブではないとして否定される。
否定されたからといって何が変わるわけでもない。
結局のところ命というものは、誰かに奪われるか、自分で消耗してしまうかどちらかであって、
かけがえのないものであるとか、地球よりも重いというのは出鱈目だろう。
21世紀の日本で餓死者が出ることは恥ずべきことなのだろうか?
江戸時代には飢饉で多くの餓死者を出した。
私たちのプライドは「江戸時代と同じ」であることを認めない。
しかし現代ではよりいっそう時間の奪い合いを、リソースの奪い合いをしている。
近代以降は物質よりも時間を独占しようとする支配者が増えている。
そして権力者は彼らの搾取を容認することで自らの地位の安泰を図る。
なんか、つまんねー世の中だな・・・
商売をしている限りはそうしたルールに従って生きて行かねばならない。
商売をビジネスと言い換えてスマートさを語る場合もある。
そういう連中の相手をするのは疲れる。
ビジネスでなければ娯楽であり、娯楽でなければビジネスであると彼らは考えている。
そのような枠組みの中で生きることはできないと感じる。
露骨にそう言ってしまうとグレゴール・ザムザのように毒虫になってしまうので
そうならないように、つまりは生き延びるために、仮面を被る。
そのようにして私は社会に奉仕し、命を差し出す。
このような二面性は弱点になっているのだろう。
しかしそれ以外にどんな生き方が出来るのだろうか?
私は少なくとも10年以上は内奥に潜む本能が表面に出て来ないように配慮して暮らしていた。
ずっとそのままであったなら私は幸せだったのだろうか?
そういう時の「幸せ」というのは、いったいどういう意味なのだろうか?
きっと意味なんてないのだろう。人は自分が何者であるかも知ることなく虚しく死んで行く。
私たちは遺伝子の乗り物にすぎない。
死の間際まで自分の願望を果たすことに粘着する。
彼らが若かった頃には粘着する老人を軽蔑していたのだが
そんなことは忘れてしまったらしい・・・
人生が二度あったとしても彼らは彼らの人生を過ごすのだし
私は私の人生を過ごすのだろう。

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