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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

夏目漱石[小品]

2016-01-23 00:05:42 | 夏目漱石
ちくま文庫 夏目漱石全集10には、小品・評論・初期の文章が収められている。
小品の一覧は以下の通り。
京に着ける夕
文鳥
夢十夜
永日小品
長谷川君と余
子規の画
ケーベル先生
変な音
三山居士
初秋の一日
硝子戸の中

【夢十夜】
解説(707ページ)に次のようなことが書かれていた。
「夢十夜」は、最近になって注目され出した小品集である。伊藤整が「人間存在の原罪心理」を
主題にしたものと解釈した以来、幾人かの批評家によって、この小品のうちに漱石内面のカオスを
象徴する因子を見出そうとしてのこころみがなされている。
しかしまだ人々を納得させるだけの解説は提示されていないようである。

「漱石内面のカオス」というのは、ちょっとどうなんだろう。

[第一夜]
37ページ
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を
墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
・・・
女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。

39ページ
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の
胸のあたりまで来て止まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、
ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
・・・
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

[第三夜]
45ページ
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年のこんな闇の晩に、この杉の根で、
一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。
おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

女が百合となって生まれ変わるのを百年待っていたり、
百年前に殺した子供を背負ってその殺害現場を訪れたりしている。
同一人物による体験なのだろうか?
百年の間、持続する個体は稀であり、個々の人格の仕業というより、
時代が変わっても人間は同じようなことを繰り返しているだけなのだということを
暗示しているのではないかと思う。
愛しい女のことを忘れないという体験はうつくしいが、
殺した子のことを忘れたいという体験はおぞましい。

【永日小品】
[蛇]
73ページ
途端に流れに逆らって、網の柄を握っていた叔父さんの右の手首が、蓑の下から肩の上まで
弾ね返るように動いた。続いて長いものが叔父さんの手を離れた。
それが暗い雨のふりしきる中に、重たい縄のような曲線を描いて、向うの土手の上に落ちた。
と思うと、草の中からむくりと鎌首を一尺ばかり持上げた。
そうして持上げたまま屹と二人を見た。
「覚えていろ」
声はたしかに叔父さんの声であった。同時に鎌首は墓の中に消えた。叔父さんは蒼い顔をして、
蛇を投げた所を見ている。
「叔父さん、今、覚えていろと云ったのはあなたですか」
叔父さんはようやくこっちを向いた。そうして低い声で、誰だかよく分らないと答えた。
今でも叔父にこの話をするたびに、誰だかよく分らないと答えては妙な顔をする。

蛇が自分の声でこたえたなら、誰だかよく分らないと答えるしかない。
蛇でなくともそうだろう。私たちは自分が二人いることに慣れてはいない。

[猫の墓]
96ページ
猫は吐気がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。
この頃では、じっと身を竦めるようにして、自分の身を支える縁側だけが便であるという風に、
いかにも切りつめた蹲踞まり方をする。眼つきも少し変って来た。
始めは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然たるうちに、どこか落ちつきがあったが、
それがしだいに怪しく動いて来た。けれども眼の色はだんだん沈んで行く。
日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした。けれども放っておいた。
妻も気にかけなかったらしい。小供は無論猫のいる事さえ忘れている。

猫の死に際が淡々と描写されている。
猫の方も命を惜しんでいるわけでもないだろうから淡々としている。
燃料を切らした炎が消え入るように寿命を迎えた猫は死を迎えても淡々としている。
誰が与えた命でもないし、誰に奪われる命でもないのだろう。
死を怖れる人間は、生にしがみついて離れない。私の大切な命を奪われてなるものかと必死になる。
医学の進歩により寿命が延びた我々人類は遺伝子すら想定していなかったであろう病気に悩まされたりする。
数十年の間、こつこつ保険料を支払い続けたりするが、年金の支給年齢は引き上げられる一方であり、
満足できる支給額でもないので、怒って焼身自殺する人も中にはいる。
金にも命にも執着しない猫はあっぱれな生き物かもしれない。

[印象]
102ページ
自分はこの時始めて、人の海に溺れた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。
しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞えている。
左を見ても塞がっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。
ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、
幾万の黒い頭が申し合わせたように歩調を揃えて一歩ずつ前へ進んで行く。

「人の海」というスケールで眺めてみると、
私たちの一人ひとりは海水を構成する一つひとつの水分子のようなもので、
周りの分子と結合して一つの波を作っては浜辺に打ち寄せて砂を洗うのだが、
誰かがそうしようと考えたというわけでもなく結果としてなんとなくそうなっているだけだ。
そんなふうにして私たちは「前の方へ動いて行く」ことになる。
そうすることで何かしら社会の進歩の如きものに貢献できれば良いのだが
「人の海」に目的なんてものはない。
そのことを認めてしまうと常に論理的思考をするよう訓練されてきた私たちは路頭に迷う。
私たちは避けようのないニヒリズムが眼前に横たわっているという状況に
耐えるような訓練は受けていないのでたいへんつらい。
根拠無く否定するか、宗教に逃れるか、矛盾を抱えてままでいるか、
選択肢はあまりない。

【硝子戸の中】
190ページ
私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類の文字が、忙しい人の眼に、
どれほどつまらなく映るだろうかと懸念している、私は電車の中でポッケットから新聞を出して、
大きな活字だけに眼を注いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて
紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。
これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、
自分が重大と思う事件化、もしくは自分の神経を相当に刺激し得る辛辣な記事のほかには、
新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。
・・・
私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑を冒して書くのである。

忙しい人は、本を読まない。
忙しい人は、結論とか要点ばかり知りたがるのだが、
そのご要望にお応えするというのであれば、哲学や文学はスカスカになってしまうだろう。
そもそも彼らは哲学や文学は閑な人間のすることだと考えているのだろう。それは幾分当たってはいる。
私たちはそういうことに時間を費やそうとする奇特な人間の生き残りであり、
あと10年もすれば絶滅してしまうのかもしれない。
忙しい人は、経済を何よりも優先する。
でも資本論は読まない。

214ページ
「こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥を掻きはしまいか、または失礼だといって
怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗り潰した所ばかり示す工夫をするならば、
私がおくらあなたに利益を与えようと焦慮ても、私の射る矢はことごとく空矢になってしまうだけです。

264ページ
客の帰ったあとで私はまた考えた。―――継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。
私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解らないで黙っている人、
同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、―――すべてこれらの人の心の置くには、私の知らない、
また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。

注釈に「これは漱石文学の代表的テーマの一つに関わることば」と書かれている。
「道草」のラストシーンも以下のようなものだった。
「じゃどうすれば本当に片づくんです」
「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事はいつまでも続くのさ。
ただいろいろな形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこう云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。(「道草」582ページ)
この「継続中」というのは評論のところで深堀りされているので詳しくはそちらに書くが、
おそらくは私たちの意識が継続中なのであり、私たち自身が自らの生命の継続を望んでいる、
あるいはそのことを前提として活動しているということだろう。
そしてその継続は私たちの望まぬやり方で断ち切られる。

273ページ
もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、
私に毫髪の疑いを挟む余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。
でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、
私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。
今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、
この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。

こうした文章を読んでいると漱石自身がドストエフスキーの小説の登場人物のように思えてくる。
きっと誰とも友達になれない。

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