「三四郎」「それから」「門」は漱石の三部作であり、
「それから」の予告に次のようなことが書かれているのだという。
「いろいろな意味においてそれからである。「三四郎」には大学生のことを描たが、
この小説にはそれから先のことを書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあのとおり単純であるが、
この主人公はそれから後の男であるからこの点においても、それからである。
この主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさきどうなるかは書いていない。
この意味においてもまたそれからである」
339ページ
代助は月に一度は必ず本家へ金を貰いに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている。
月に一度の外にも、退屈になれば出かけて行く。そうして子供に調戯ったり、書生と五目並べをしたり、
嫂と芝居の評をしたりして帰ってくる。
「それから先」の主人公というのは「高等遊民」だった。
「三四郎」の後、どういう人間をどこに向かわせるかを作者は思案していたのだろう。
その「どういう人間」というのは「高等遊民」だった。
403ページ
「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、
日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」
405ページ
「そいつは面白い。大いに面白い。僕みたように局部に当って、現実と悪闘しているものは、
そんなことを考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働いているうちは、忘れているからね」
407ページ
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働きでなくっちゃ、
真面目な仕事はできるものじゃないんだよ」
代助はパンを得るための仕事はパンを得ることが目的である故に純粋ではないと考えている。
「職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」と
蜂蜜パイの淳平くんも言っているが、さしたる才能もないのであれば食うために仕事をすることは避けられない。
自分一人が飢え死にするだけなら良いかもしれないが、家族を飢え死にさせるわけにはいかない。
愛し合っていれば子供は生まれて来るし、生れた子供は責任を持って養育しなければならない。
生き延びるための仕事を否定してしまったなら、世界は死人と孤児で溢れてしまうだろう。
だが、こじつけたやりがいで欺き続ることにも限界があって、いつかは為すべき活動を為すようになるのだろう。
生き延びるだけでは不足している。
426
しまいにアンニュイを感じ出した。
439ページ
代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を
二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を
促したものと解釈していた。またこれをこれら新旧両欲の衝突と見なしていた。
最後に、この生活欲の目醒しい発展を、欧州から押し寄せた海嘯と心得ていた。
あいにく二十一世紀はさらに堕落してしまった。
自転車操業の経済を維持するために膨張した物欲は消費財の購入価格に見合った周期で更新される。
世界の隅々に住まう老若男女一人ひとりの欲望がおぞましいまでに引きずり出されるようになったが当人は気付かない。
そしてニーチェが予告したように道徳までもが経済的勝利者の独占するものとなった。
それらを「欧州から押し寄せた海嘯(つなみ)」とする点で代助は正しい。
その海嘯は今では日本だけでなく世界の全てを包み込んでしまった。
誰もが欲望を刺激され、誰もが成功を夢み、成功した者は道徳的成功も手中にする。
代助もそのような堕落を経験してみるべきだろう。
498ページ
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云った。代助は憐れな心持ちがした。
555ページ
彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。その生命の裏にも表にも、
欲得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。
雲のような自由と、水のごとき自然とがあった。
そうしてすべてが幸(ブリス)であった。
だからすべてが美しかった。
欲望のない世界、あるいは自我のない世界、意識のない世界というのは美しい。
私たちは一瞬、そのような世界に接近することがあるのだが、
しばらくすると元に戻っている。
568ページ
彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になったと自覚した。
しかもそれは自ら進んで求めた責任に違いなかった。したがって、それを自分の背に負うて、
苦しいとは思えなかった。その重みに押されるがため、かえって自然と足が前に出るような気がした。
彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。
581ページ
「じゃ何でもお前の勝手にするさ」と云って苦い顔をした。
代助も不愉快であった。しかし仕方がないから、礼をして父の前を退がろうとした。ときに父は呼び留めて、
「おれの方でも、もうお前の世話はせんから」と云った。
経済的に自立していない人間は「決戦する」ことなど出来ない。
だが経済的な自立を維持しようとする場合も「決戦する」ことなど出来ない。
結局のところは生存を維持しようとするならば他人の言いなりにならなければならなくなる。
代助の父にしたって誰かに頭を下げているだろう。
代助は愚かなことをしてしまったのだろうか?
愚かではあるが避けられない出来事ではないかと思う。
616ページ
「お前は平生からよく分らない男だった。それでも、いつか分る時機が来るだろうと思って今日まで
交際っていた。しかし今度と云う今度は、全く分らない人間だと、おれも諦めてしまった。
世の中に分らない人間ほど危険なものはない。何をするんだか、何を考えているんだか安心ができない。
お前はそれが自分の勝手だからよかろうが、お父さんやおれの、社会上の地位を思ってみろ、
お前だって家族の名誉と云う観念は持っているだろう」
「世の中に分らない人間ほど危険なものはない」というのは、ザムザ的というかムルソー的というか、
きっと代助もそういう人間の一種なのだろう。三四郎みたいに単純ではない。なんだか他人のような気がしない。
「分らない人間」というのは何かを考えている。高圧的に誰かが差し出した世界に対して疑問を抱いている。
社会が変革されるべきかどうかに関心があるというわけではないが、
社会を少しずつ変えていくのは、そういった人間だろう。
危険と呼ばれてしまうことで、あまり良い体験をすることは出来ないのだが、
もし危険に生れついていなかったら退屈であったに違いない。
618ページ
「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞こえるように云った。彼の頭は電車の速力をもって回転し出した。
回転するに従って火のように焙って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽くす事ができるだろうと思った。
稼ぎもないくせに父に逆らって世話をしてもらえなくなった代助が、その後どうなったかはわからない。
高等遊民に留まりたかったら金持ちの父の言う事を聞かなければならないと書かれているわけでもないし、
逆らいたかったら経済的に独立しなさいなんてことが書かれているわけでもない。
三千代をきっかけとした内的な衝動はそのような過渡的な状況に留まることを許さない。
代助が気付いた途端に世の中は動き出す。
自覚が世界を動かす。
引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集5のものである。
「それから」の予告に次のようなことが書かれているのだという。
「いろいろな意味においてそれからである。「三四郎」には大学生のことを描たが、
この小説にはそれから先のことを書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあのとおり単純であるが、
この主人公はそれから後の男であるからこの点においても、それからである。
この主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさきどうなるかは書いていない。
この意味においてもまたそれからである」
339ページ
代助は月に一度は必ず本家へ金を貰いに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている。
月に一度の外にも、退屈になれば出かけて行く。そうして子供に調戯ったり、書生と五目並べをしたり、
嫂と芝居の評をしたりして帰ってくる。
「それから先」の主人公というのは「高等遊民」だった。
「三四郎」の後、どういう人間をどこに向かわせるかを作者は思案していたのだろう。
その「どういう人間」というのは「高等遊民」だった。
403ページ
「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、
日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」
405ページ
「そいつは面白い。大いに面白い。僕みたように局部に当って、現実と悪闘しているものは、
そんなことを考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働いているうちは、忘れているからね」
407ページ
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働きでなくっちゃ、
真面目な仕事はできるものじゃないんだよ」
代助はパンを得るための仕事はパンを得ることが目的である故に純粋ではないと考えている。
「職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」と
蜂蜜パイの淳平くんも言っているが、さしたる才能もないのであれば食うために仕事をすることは避けられない。
自分一人が飢え死にするだけなら良いかもしれないが、家族を飢え死にさせるわけにはいかない。
愛し合っていれば子供は生まれて来るし、生れた子供は責任を持って養育しなければならない。
生き延びるための仕事を否定してしまったなら、世界は死人と孤児で溢れてしまうだろう。
だが、こじつけたやりがいで欺き続ることにも限界があって、いつかは為すべき活動を為すようになるのだろう。
生き延びるだけでは不足している。
426
しまいにアンニュイを感じ出した。
439ページ
代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を
二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を
促したものと解釈していた。またこれをこれら新旧両欲の衝突と見なしていた。
最後に、この生活欲の目醒しい発展を、欧州から押し寄せた海嘯と心得ていた。
あいにく二十一世紀はさらに堕落してしまった。
自転車操業の経済を維持するために膨張した物欲は消費財の購入価格に見合った周期で更新される。
世界の隅々に住まう老若男女一人ひとりの欲望がおぞましいまでに引きずり出されるようになったが当人は気付かない。
そしてニーチェが予告したように道徳までもが経済的勝利者の独占するものとなった。
それらを「欧州から押し寄せた海嘯(つなみ)」とする点で代助は正しい。
その海嘯は今では日本だけでなく世界の全てを包み込んでしまった。
誰もが欲望を刺激され、誰もが成功を夢み、成功した者は道徳的成功も手中にする。
代助もそのような堕落を経験してみるべきだろう。
498ページ
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云った。代助は憐れな心持ちがした。
555ページ
彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。その生命の裏にも表にも、
欲得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。
雲のような自由と、水のごとき自然とがあった。
そうしてすべてが幸(ブリス)であった。
だからすべてが美しかった。
欲望のない世界、あるいは自我のない世界、意識のない世界というのは美しい。
私たちは一瞬、そのような世界に接近することがあるのだが、
しばらくすると元に戻っている。
568ページ
彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になったと自覚した。
しかもそれは自ら進んで求めた責任に違いなかった。したがって、それを自分の背に負うて、
苦しいとは思えなかった。その重みに押されるがため、かえって自然と足が前に出るような気がした。
彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。
581ページ
「じゃ何でもお前の勝手にするさ」と云って苦い顔をした。
代助も不愉快であった。しかし仕方がないから、礼をして父の前を退がろうとした。ときに父は呼び留めて、
「おれの方でも、もうお前の世話はせんから」と云った。
経済的に自立していない人間は「決戦する」ことなど出来ない。
だが経済的な自立を維持しようとする場合も「決戦する」ことなど出来ない。
結局のところは生存を維持しようとするならば他人の言いなりにならなければならなくなる。
代助の父にしたって誰かに頭を下げているだろう。
代助は愚かなことをしてしまったのだろうか?
愚かではあるが避けられない出来事ではないかと思う。
616ページ
「お前は平生からよく分らない男だった。それでも、いつか分る時機が来るだろうと思って今日まで
交際っていた。しかし今度と云う今度は、全く分らない人間だと、おれも諦めてしまった。
世の中に分らない人間ほど危険なものはない。何をするんだか、何を考えているんだか安心ができない。
お前はそれが自分の勝手だからよかろうが、お父さんやおれの、社会上の地位を思ってみろ、
お前だって家族の名誉と云う観念は持っているだろう」
「世の中に分らない人間ほど危険なものはない」というのは、ザムザ的というかムルソー的というか、
きっと代助もそういう人間の一種なのだろう。三四郎みたいに単純ではない。なんだか他人のような気がしない。
「分らない人間」というのは何かを考えている。高圧的に誰かが差し出した世界に対して疑問を抱いている。
社会が変革されるべきかどうかに関心があるというわけではないが、
社会を少しずつ変えていくのは、そういった人間だろう。
危険と呼ばれてしまうことで、あまり良い体験をすることは出来ないのだが、
もし危険に生れついていなかったら退屈であったに違いない。
618ページ
「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞こえるように云った。彼の頭は電車の速力をもって回転し出した。
回転するに従って火のように焙って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽くす事ができるだろうと思った。
稼ぎもないくせに父に逆らって世話をしてもらえなくなった代助が、その後どうなったかはわからない。
高等遊民に留まりたかったら金持ちの父の言う事を聞かなければならないと書かれているわけでもないし、
逆らいたかったら経済的に独立しなさいなんてことが書かれているわけでもない。
三千代をきっかけとした内的な衝動はそのような過渡的な状況に留まることを許さない。
代助が気付いた途端に世の中は動き出す。
自覚が世界を動かす。
引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集5のものである。