goo blog サービス終了のお知らせ 

140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

それから

2015-11-22 00:05:24 | 夏目漱石
「三四郎」「それから」「門」は漱石の三部作であり、
「それから」の予告に次のようなことが書かれているのだという。
「いろいろな意味においてそれからである。「三四郎」には大学生のことを描たが、
この小説にはそれから先のことを書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあのとおり単純であるが、
この主人公はそれから後の男であるからこの点においても、それからである。
この主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさきどうなるかは書いていない。
この意味においてもまたそれからである」

339ページ
代助は月に一度は必ず本家へ金を貰いに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている。
月に一度の外にも、退屈になれば出かけて行く。そうして子供に調戯ったり、書生と五目並べをしたり、
嫂と芝居の評をしたりして帰ってくる。

「それから先」の主人公というのは「高等遊民」だった。
「三四郎」の後、どういう人間をどこに向かわせるかを作者は思案していたのだろう。
その「どういう人間」というのは「高等遊民」だった。

403ページ
「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、
日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」
405ページ
「そいつは面白い。大いに面白い。僕みたように局部に当って、現実と悪闘しているものは、
そんなことを考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働いているうちは、忘れているからね」
407ページ
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働きでなくっちゃ、
真面目な仕事はできるものじゃないんだよ」

代助はパンを得るための仕事はパンを得ることが目的である故に純粋ではないと考えている。
「職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」と
蜂蜜パイの淳平くんも言っているが、さしたる才能もないのであれば食うために仕事をすることは避けられない。
自分一人が飢え死にするだけなら良いかもしれないが、家族を飢え死にさせるわけにはいかない。
愛し合っていれば子供は生まれて来るし、生れた子供は責任を持って養育しなければならない。
生き延びるための仕事を否定してしまったなら、世界は死人と孤児で溢れてしまうだろう。
だが、こじつけたやりがいで欺き続ることにも限界があって、いつかは為すべき活動を為すようになるのだろう。
生き延びるだけでは不足している。

426
しまいにアンニュイを感じ出した。

439ページ
代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を
二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を
促したものと解釈していた。またこれをこれら新旧両欲の衝突と見なしていた。
最後に、この生活欲の目醒しい発展を、欧州から押し寄せた海嘯と心得ていた。

あいにく二十一世紀はさらに堕落してしまった。
自転車操業の経済を維持するために膨張した物欲は消費財の購入価格に見合った周期で更新される。
世界の隅々に住まう老若男女一人ひとりの欲望がおぞましいまでに引きずり出されるようになったが当人は気付かない。
そしてニーチェが予告したように道徳までもが経済的勝利者の独占するものとなった。
それらを「欧州から押し寄せた海嘯(つなみ)」とする点で代助は正しい。
その海嘯は今では日本だけでなく世界の全てを包み込んでしまった。
誰もが欲望を刺激され、誰もが成功を夢み、成功した者は道徳的成功も手中にする。
代助もそのような堕落を経験してみるべきだろう。

498ページ
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云った。代助は憐れな心持ちがした。

555ページ
彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。その生命の裏にも表にも、
欲得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。
雲のような自由と、水のごとき自然とがあった。
そうしてすべてが幸(ブリス)であった。
だからすべてが美しかった。

欲望のない世界、あるいは自我のない世界、意識のない世界というのは美しい。
私たちは一瞬、そのような世界に接近することがあるのだが、
しばらくすると元に戻っている。

568ページ
彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になったと自覚した。
しかもそれは自ら進んで求めた責任に違いなかった。したがって、それを自分の背に負うて、
苦しいとは思えなかった。その重みに押されるがため、かえって自然と足が前に出るような気がした。
彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。

581ページ
「じゃ何でもお前の勝手にするさ」と云って苦い顔をした。
代助も不愉快であった。しかし仕方がないから、礼をして父の前を退がろうとした。ときに父は呼び留めて、
「おれの方でも、もうお前の世話はせんから」と云った。

経済的に自立していない人間は「決戦する」ことなど出来ない。
だが経済的な自立を維持しようとする場合も「決戦する」ことなど出来ない。
結局のところは生存を維持しようとするならば他人の言いなりにならなければならなくなる。
代助の父にしたって誰かに頭を下げているだろう。
代助は愚かなことをしてしまったのだろうか?
愚かではあるが避けられない出来事ではないかと思う。

616ページ
「お前は平生からよく分らない男だった。それでも、いつか分る時機が来るだろうと思って今日まで
交際っていた。しかし今度と云う今度は、全く分らない人間だと、おれも諦めてしまった。
世の中に分らない人間ほど危険なものはない。何をするんだか、何を考えているんだか安心ができない。
お前はそれが自分の勝手だからよかろうが、お父さんやおれの、社会上の地位を思ってみろ、
お前だって家族の名誉と云う観念は持っているだろう」

「世の中に分らない人間ほど危険なものはない」というのは、ザムザ的というかムルソー的というか、
きっと代助もそういう人間の一種なのだろう。三四郎みたいに単純ではない。なんだか他人のような気がしない。
「分らない人間」というのは何かを考えている。高圧的に誰かが差し出した世界に対して疑問を抱いている。
社会が変革されるべきかどうかに関心があるというわけではないが、
社会を少しずつ変えていくのは、そういった人間だろう。
危険と呼ばれてしまうことで、あまり良い体験をすることは出来ないのだが、
もし危険に生れついていなかったら退屈であったに違いない。

618ページ
「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞こえるように云った。彼の頭は電車の速力をもって回転し出した。
回転するに従って火のように焙って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽くす事ができるだろうと思った。

稼ぎもないくせに父に逆らって世話をしてもらえなくなった代助が、その後どうなったかはわからない。
高等遊民に留まりたかったら金持ちの父の言う事を聞かなければならないと書かれているわけでもないし、
逆らいたかったら経済的に独立しなさいなんてことが書かれているわけでもない。
三千代をきっかけとした内的な衝動はそのような過渡的な状況に留まることを許さない。
代助が気付いた途端に世の中は動き出す。
自覚が世界を動かす。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集5のものである。

三四郎

2015-11-15 00:05:01 | 夏目漱石
12ページ
「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言って、にやりと笑った。

44ページ
「ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。
彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。
真と人と合して醇化一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、
道のための講義となる。哲学の講義はここに至って始めて聞くべし。いたずらに真を舌頭に転ずるものは、
死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すに過ぎず。なんの意義かこれあらん。
・・・余今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。
岑々たる頭をおさえて未来永劫に試験制度を呪詛する事を記憶せよ」

「真を説くにあらず、真を体せる」と言ったところで、ありもしない真に振り回されていることになる。
現代から遡ってみればヘーゲルの観念論自体が巨大な妄想ということかもしれない。
十九世紀は様々な分野で巨大な揺ぎ無い建造物が打ち立てられようとした時代であったかもしれない。
ワーグナーとヘーゲルはその代表ではないかと思う。
古い音楽は価値を損ねられることはないが、古い哲学は妄想として後の世で批判されることになる。
過去の哲学はその体系の中では真であると確かヘーゲル自身が書いていた。
そういう意味では間違っていたわけではないだろうが、
そこに留まりきれない人々はまだ見つけられていない知の鉱脈を探しに出かけることになる。
ヘーゲル哲学に不変の価値を認める学生は、試験のため(パンのため)に読みたくはないのだという。
本は楽しみのためにあるのであって試験のためにあるのではないという点で賛成だが、
本当は試験を受けたくないというだけのことかもしれない。

68ページ
「君、不二山を翻訳してみた事がありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは・・・」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。

認識すると人間に化けてしまう。あるいは人間に化けたものしか認識できない。
そのことに限界を感じた現象学は単に記述することに努めようとしたということだろう。
そんなことが本来、可能かどうかはよくわからない。
私たちがどれほど身体を優先しようとしても、そのことを指示しているのは思考であり、
思考もまた生存を維持しようとする身体的な機能の一部であり、
身体と思考(あるいは精神)は分かち難く結びついている。
その一方を取り出すことは難しい。
富士山を見て「崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」言うのは人為的でおもしろくないが、
単に「美しい」というのはどうなのだろうか?
エサ・敵・異性の区別しか必要でないであろう動物とは異なって私たちは一般化した存在として事物を扱う。
富士山を見てもにゃんとも思わないであろう猫とは違う。
そこに翻訳とはまた違う芸術の領域がある。

124ページ
「迷子」
女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
三四郎は知るとも、知らぬとも言い得ぬほどに、この問いを予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子(ストレイシープ)―――わかって?」

199ページ
「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。
野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
女はひとみを定めて、三四郎を見た。三四郎はそのひとみの中に言葉よりも深き訴えを認めた。

285ページ
野々宮さんは、招待状を引きちぎって床の上に捨てた。やがて先生とともにほかの絵の評に取りかかる。
与次郎だけが三四郎のそばへ来た。
「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすればいいんだ」
三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊(ストレイシープ)、迷羊と繰り返した。

野々宮さんも三四郎も美禰子に翻弄される。
野々宮さんは美禰子の結婚式の招待状を引きちぎる。
読了後はただ「ストレイシープ」という美禰子の英訳が何度も繰り返される。
知らぬ間に三四郎に感情移入していたようだ。

引用箇所のページ番号は岩波文庫のものである。

坑夫

2015-11-08 00:05:06 | 夏目漱石
559ページ
―――自分はこの時始めてジャンボーの意味を理解した。生涯いかなる事があっても、
けっして忘れられないほど痛切に理解した。ジャンボーは葬式である。
坑夫、シチュウ、堀子、山市に限って執行される、また執行されなければならない一種の葬式である。

635ページ
「六年ここに住んでいるうちに人間の汚いところは大抵見悉した。でも出る気にならない。
いくら腹が立っても、いくら嘔吐を催しそうでも、出る気にならない。
しかし社会には、―――日の当たる社会には―――ここよりまだ苦しい所がある。それを思うと、辛抱も出来る。
ただ暗くって狭い所だと思えばそれで済む。身体も今じゃ銅臭くなって、一日もカンテラの油を嗅がなくっちゃいられなくなった。
しかし―――しかしそりゃおれの事だ。君の事じゃない。君がそうなっちゃ大変だ。生きている人間が銅臭くなっちゃ大変だ。
いや、どんな決心でどんな目的を持って来ても駄目だ。決心も目的もたった二三日で突ッつき殺されてしまう。
それが気の毒だ。いかにも可哀想だ。理想も何にもない鑿と槌よりほかに使う術を知らない野郎なら、それで結構だが。
しかし君のような―――君は学校へ行ったろう。―――どこへ行った。―――ええ? まあどこでもいい。
それに若いよ。シキに抛り込まれるには若すぎるよ。ここは人間の屑が抛り込まれる所だ。
全く人間の墓所だ。生きて葬られる所だ。一度踏ん込んだが最後、どんな立派な人間でも、出られっこのない陥穽だ。
そんな事とは知らずに、大方ポン引の言いなりしだいになって、引張られて来たんだろう。それを君のために悲しむんだ。
人一人を堕落させるのは大事件だ。殺しちまう方がまだ罪が浅い。堕落した奴はそれだけ害をする。
他人に迷惑を掛ける」

「生きている人間が銅臭くなっちゃ大変だ」というからには安さんは半分死んでしまった人間ということなのだろう。
どんな理想も、どんな目的も、どんな決心も、この穴の中では意味を為さない。
そういう場所が墓所であり、地獄ということなのだろうが、「人間の屑」にとっては、ただ暗くて狭い所だ。
ちょっとでも考える習慣のある人間にとっては、少しでも理想のある人間にとっては、墓所であり地獄だ。
「人間の屑」にとっては堕落はないが、「学校へ行った」人間にとっては堕落だ。
漱石はしばしば堕落を殺しより罪悪視する。
死ぬことは一減じるだけだが、良い人間が悪い人間になるということは二減じることになるのだろう。
さらにその悪人が害を振り撒けば、どれほどのマイナスになるかわかったものではない。
だがそうした負の連鎖が続くのであれば、とっくに世の中は穴の中と同じになっているのではないかと思う。
どれほど堕落した人間であっても死ねばゼロになる。マイナスがゼロになるのはプラスと同じだ。
そこで連鎖は食い止められる。

641ページ
途中でいろいろ考えた。あの安さんと云う男が、順当に社会の中で伸びて行ったら、今頃は何に成っているか知らないが、
どうしたって坑夫より出世しているに違ない。社会が安さんを殺したのか、安さんが社会に対して済まない事をしたのか
―――あんな男らしい、すっきりした人が、そうむやみに乱暴を働く訳がないから、ことによると、
安さんが悪いんでなくって、社会が悪いのかも知れない。

社会は有用な人材に道を開くわけでもないし、出世を約束するわけでもない。
社会に意志があって何かしら目的があって、人材を必要としているわけでもない。だから社会が悪いというわけでもない。
個人が悪いとか社会が悪いということではなく、単に個人と個人の利害が嚙み合わないので、
負けた方は「シキに抛り込まれる」ことになる。一方にとっては善で、一方にとっては悪となる。

海辺のカフカ(上巻)222ページ
「三四郎は物語の中で成長していく。壁にぶつかり、それについてまじめに考え、なんとか乗り越えようとする。
そうですね? でも『坑夫』の主人公はぜんぜんちがう。彼は目の前にでてくるものをだらだらと眺め、
そのまま受け入れているわけです。もちろんそのときどきの感想みたいなものはあるけど、とくに真剣なものじゃない。
それよりはむしろ自分の起こした恋愛事件のことばかりくよくよと振り返っている。
そして少なくともみかけは、穴に入ったときとほとんど変わらない状態で外に出てきます。
つまり彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほとんどなにもないんです。
なんていうのかな、すごく受け身です。でも僕は思うんだけど、人間というのはじっさいには、
そんなに簡単に自分の力でものごとを選択したりできないものなんじゃないかな」

人間はいつも圧倒的なものに蹂躙されてきたのだが、そのことを認めたくない勢力は意思(意志)に価値を与えようとする。
有限な肉体を蔑み、無限であるべき精神を讃えようとするキリスト教の思想が近代化を装い、影響を及ぼしている。
乗り越えられる壁というのは、それほど高い壁というわけではないのだが、壁を乗り越えたことを誇りとしているのだろう。
作者は教養を強いることなく、まずは現実を直視することを要求しているのではないかと思。
カフカも、ドストエフスキーも、マルクスだってそうして来たのではないだろうか?
キリスト教的な飛躍の前に、まずは受け身になって、だらだら眺めてみるのが良いのだろう。
成長とか、進歩とか、革命などと言っている連中は信用できない。
世界をそのままに受け止める者こそが本当の未来を語る。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集4のものである。

虞美人草

2015-11-01 00:05:35 | 夏目漱石
56ページ
「宇宙は謎である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。
疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。
この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭に儃佪し、中夜に煩悶するために生まれるのである。
親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。
宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。
解けぬ謎である。苦痛である」

疑が苦痛であり、謎が苦痛であり、解けぬ謎を押し付けられるために生まれるのが苦痛であれば、救いはないのだろう。
謎を解こうとする行為は、より多くの秩序を取り込み、より複雑な複合体を構成しようとする働きから生じるものであり、
私たちはそのような働きの中で生きている。謎を解いた時に与えられる快感も含めて、そうなっている。
そして親も妻も宇宙も、取り込まれるべき何らかの秩序ということになるだろう。
そのように複雑さを増してゆく永久運動がある一方で、知を求めないことですべてを包み込もうとする教えもある。
有限な存在はいくつか謎解きをしたところでさらに巨大な謎の前に屈するものだから、
知を欲する行為を遮断してしまえば苦痛から逃れ得ることが出来るだろう。
私は両者の間で迷っている。
おそらくは運動を維持できる体力あるいは気力があるうちは謎解きを続けるのだろう。
そしてその力を失ってしまったなら秩序ではない混沌に、有ではない無に、複雑を逃れた単純へと向かうのだろう。

190ページ
蟻は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は激烈なる生存のうちに無聊をかこつ。
立ちながら三度の食につくの忙しきに堪えて、路上に昏睡の病を憂う。生を縦横に託して、縦横に死を貪るは文明の民である。
文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。

成長することに囚われ、逃れることの出来ない人がたくさんいる。
一日一日と死に近づいていくことから目を背け、昨日より去年より十年前より向上した所得や地位や財産によって
自らの値打ちを確認する。富という物差しで自らの値打ちに納得する。
成長しないことは悪であり、彼ら文明の民は「自己の活動を誇り、自己の沈滞に苦しむ」ということだ。
どれほどの活動を誇っているのかよくわからないが、たとえば百冊の本から学べるものに比べると
どうということはないのではないかと思う。
彼らにとっては本を読むことも成長の一部でなければならない。
やれやれ。

233ページ
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。
酔狂と云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。

謎を解くことと、緋鯉が跳ねることは同じことなのだろう。
止むに止まれず、そうせずにはいられない。私たちはむやみに跳ねる緋鯉と変わりはない。
むやみに吠える犬と変わりはない。むやみと血を吸う蚊と変わりはない。

331ページ
「西洋へ行くと人間を二た通り拵えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「不作法な裏と、奇麗な表と。厄介でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈しいから上部を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。
これからの人間は生きながら八つ裂の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸をつけたような奴ばかり出来て、それで落ちつきが取れるかも知れない。
いやだな、そんな修業に出掛けるのは」

何度か書いているように「近代化」は「西洋化」ということなのだろう。
そして漱石が予言した通り、表と裏の乖離はますます激しくなり、「神様の顔へ豚の睾丸をつけたような奴ばかり」増えている。
本当に「豚の睾丸をつけたような奴ばかり」だ。豚には少々失礼な話だが。

373ページ
「僕の母は偽物だよ。君らがみんな欺かれているんだ。母じゃない謎だ。澆季の文明の特産物だ」

この小説では「謎」という言葉は、あまり良い意味では使われていない。

375ページ
「糸公は君の知己だよ。御叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なっても、日本中がことごとく君に迫害を
加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を理解している。君の胸の中を知り抜いている。
糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣のない女だ」

391ページ
「小野さん、真面目だよ。いいかね。人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。
上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合がない。また相手にされてもつまるまい。
僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね。分ったかい」

393ページ
「ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。
皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、
あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後は心持がいいものだよ。
君にそう云う経験があるかい」

皮だけで生きている「豚の睾丸をつけたような」人間がいくらもある中で、宗近一とその妹の糸子とその父親が救いとなっている。
甲野さんと小野さんは救われる。
藤尾は救われない。

418ページ
すべてが銀の中から生える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。
―――花は虞美人草である。落款は抱一である。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集4のものである。

野分

2015-10-25 00:05:27 | 夏目漱石
334ページ
「・・・しかしそれは間違です。文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、
凡そ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを嘗め得たものが文学者である。
文学者というのは原稿紙を前に置いて、熟語辞典を参考して、首をひねっているような閑人じゃありません・・・」

338ページ
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友だちをたよりにするようじゃ
何も出来ません。ことによると親類との仲違になる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。
しまいに下女までからかいます」
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」

360ページ
高柳君はそうは行かぬ。道也先生の何事も知らざるに反して、彼は何事も知る。往来の人の眼つきも知る。
肌寒く吹く風の鋭どきも知る。かすれて渡る雁の数も知る。美くしき女も知る。黄金の貴きも知る。
木屑のごとく取り扱わるる吾身のはかなくて、浮世の苦しみの骨に食い入る夕々を知る。
下宿の菜の憐れにして芋ばかりなるはもとより知る。知り過ぎたるが君の癖にして、
この癖を増長せしめたるが君の病である。

知る知らないの差異は、人の目つきを気にするか気にしないかというところにあるのだろう。
何かをしようと思うときに人の目つきを気にするようでは何もできない。
人に認められたい褒められたいと考えた時には人に認められたり褒められること以外の行動は禁じられ何もできなくなる。
他人の評価に委ねられるその人生が病であるが、病であることを知ることなく死んで行くのであれば幸福であるかもしれない。
何にも気付きもしないで死んで行く。気付いたとしても死んで行く。

375ページ
「わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得るために世のために働くのです。
結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。
ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでのことです。
こう働かなくって満足が出来ないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。
人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。
人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思っています。
道に従う人は神も避けねばならんのです。岩崎の塀なんか何でもない。ハハハハ」

資質によるのか環境によるのかわからないが気が付いた時には「ある傾向」を持っている。
一度、その傾向が固定されたなら、ただ自分の満足を得るために、自分自身で納得するための行動を欲するようになる。
従うしかないようなそのものを「道」と呼んでいる。
「十字架」と呼ぶ者もいる。

387ページ
「主客は一である。主を離れて客なく、客を離れて主はない。
吾々が主客の別を立てて物我の境を判然と分劃するのは生存上の便宜である。
形を離れて色なく、色を離れて形なきを強いて個別するの便宜、着想を離れて技巧なく技巧を離れて着想なきを
しばらく両体となすの便宜と同様である。一たびこの差別を立したる時吾人は一の迷路に入る。
ただ生存は人生の目的なるが故に、生存に便宜なるこの迷路は入る事いよいよ深くして出ずる事いよいよかたきを感ず。
独り生存の欲を一刻たりとも擺脱したるときにこの迷は破る事が出来る」

注釈によると「明治三十九年(1906年)の『断片』にも、これと同じ論が、書かれている」ということだ。
蓄積した「体験」を元に「思考」を重ね「行動」に活かすという仕組みは自然界を生き延びる上で有利なのだという。
その経験を時系列に一元化し、対象を把握し、行動を決定するというプロセスでは、時間と自我が必要とされる。
その仕組みの中では必然的に「主客」は分離され「時間」が生み出される。
「そと」から見れば現象にすぎない仕組みの中で「時間」と「自我」は破格の待遇を受けることになる。
その時空間の中で「食う食われる」「やらなければやられる」といった事象が繰り広げられる。
そこから逃れる手段の一つが仏教ということになる。
「自己を忘るることなり」というのは自己への執着、特に生存への執着から離れたものだろう。
村上春樹の「鼠」はこの迷路から出られなくなったものの象徴ということかもしれない。
「生き延びること」と「自己を忘るること」の両立は難しい。

429ページ
「書きたいさ。これでも書かなくっちゃ何のために生れて来たのかわからない。それが書けないときまった以上は
穀潰し同然ださ。だから君の厄介にまでなって、転地するがものはないんだ」

どんなにつまらない人間であっても何か残したいと思ってしまう。私もそうだ。
引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集3のものである。

二百十日

2015-10-18 00:05:50 | 夏目漱石
186ページ
「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。
「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」
「豆腐屋の子がどんなになったのさ」
「だって豆腐屋らしくないじゃないか」
「豆腐屋だって、肴屋だって―――なろうと思えば、何にでもなれるさ」、
「そうさな、つまり頭だからね」
「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるかわからない。それでも生涯豆腐屋さ。
気の毒なものだ」

209ページ
「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。―――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、
うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん横手を打つ。

238ページ
「今日は何日だっけかね」
「今日は九月二日さ」
「ことによると二百十日かも知れないね」
会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは満目の草を埋め尽くして、一丁先は靡く姿さえ、
判然と見えぬようになった。

「『二百十日』は締切りに迫られた、彼自身「杜撰の作にて御恥ずかしき限り」と
認めている失敗作である」と解説に書かれていた。
「気の毒な豆腐屋」と「半熟のいわれ」については勉強になりました。ハハハハ。
引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集3のものだ。
図書館で借りてきて読んだ。

草枕

2015-10-11 00:05:36 | 夏目漱石
「われわれはたんに『草枕』の多彩に織られた文章のなかを流れて行けばよい。
立ちどまって、それらの言葉が指示する物や意味を探すべきではない。
漱石は、そのように書かれそのように読まれる作品が"文学"として受けとられないことを
むろんよく承知していたのであり、むしろそのような状況において『草枕』を挑発的に書いたといえる」

解説にそのようなことが書かれていた。
文章を引用しては、そこから誘発される感想を書き連ねているのだが、そうすることはけっこう苦痛ではある。
スラスラと読んで、楽しんで、忘れてしまいたいと思いながら、半ば強制的に感想を書かせている。
そのようにして無理矢理自分に書かせた感想を後から読んで「なるほど」と思うこともあるし、
「つまらないことを書いているな」と思うこともある。いずれにしても記録しているから、そう思える。
私はそうやって冬眠前のシマリス君のように、いずれ食するであろう「材料」を貯め込んでいる。
ぜひ、貯めた場所を、貯めたことを忘れないようにしたい。
そのようにして半強制的に感想を書くことを義務づけている私にとって『草枕』は相当難物である。
「立ちどまって、それらの言葉が指示する物や意味を探すべきではない」
まったく、その通りだ。
まったく、余計なことをしていると思いながら、少しだけ書く。

60ページ
ほーう、ほけきょーう、ほーー、ほけっーきょうー
とつづけ様に囀る。
「あれが本当の歌です」と女が余に教えた。

「金になる歌」はしばらく流行った後に全然聞かれなくなる。それはあまりに恣意的なのだろう。
鳥には恣意的なところはなく、風景にも恣意的なところはない。
視覚や聴覚の喜びとは、本来、恣意的なものや人為的なものを排除したところにある。
繰り返し聴かれる音楽は技巧を凝らしてはいるのだが、結局のところ人為的なものの排除に成功している。
第九交響曲の第1楽章、第2楽章は作曲家の人格が全く想定できないような音楽に仕上がっている。

123ページ
「画にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだ中々投げない積りです」
「私は近々投げるかも知れません」
余りに女としては思い切った冗談だから、余は不図顔を上げた。女は存外慥かである。
「私が身を投げて浮いている所を―――苦しんで浮いている所じゃないんです―――
やすやすと往生して浮いている所を―――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚いた、驚いた、驚いたでしょう」
女はすらりと立ち上がる。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑った。
茫然たる事多時。

身を投げて浮いているとは、ハムレットの、あるいはミレーのオフィーリアのことだ。
この絵を見ていると、「え?」というか、はっとするところがある。
GARNET CROW 春待つ花のように

178ページ
那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない
「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に
成就したのである。

最後に残るのは「憐れ」ということらしい。
人為的ではない人の営みが画になる。

坊っちゃん

2015-10-04 00:05:47 | 夏目漱石
新潮文庫の「坊っちゃん」を読んだ。
「したがって”坊っちゃん”とは、あたかも人語を語る猫と同様に、現実には存在し得ない原理によって
生きている人物にほかならず、その原理とは『善』と『美』の原理以外のなにものでもないということに
なるのである」
「いわば告白しないことによって告白し、虚構や象徴によってのみ自己の秘密を語るという、
漱石独特の手法が生まれたのはここからである。それは、換言すれば、いわば非存在によって存在を語る
ことであり、事実には直ちに還元し得ぬ真実を語ることであった」
「ところで、それなら漱石を現代に生かしているもう一つの要素とはいったいなんだろうか?
それはおそらく、彼が『近代』の影の部分を最初に洞察した作家だったという事実である」

解説にそのようなことが書かれていた。
坊っちゃんと山嵐は赤シャツに一矢報いるのだが、結局は敗者となってその地を去ることになる。
毒虫に変身したグレゴール・ザムザや人語を語る猫と同様に彼らは存在しない人物であり、
存在したとしても消されることになる。(猫も最後には死ぬ。) その原理が『善」と『美』であるかは知らない。
ザムザの場合は疑問を感じること、つまりは探究心を持ち続けたことが変身のきっかけになったと思われる。
あるいはそれが『善』であり『美』であるかもしれない。

68ページ
「考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。わるくならなければ社会に
成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと
難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。
いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、
世の為にも当人の為にもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。
単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。
大に感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツより余っ程上等だ」

144ページ
「生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。只校長から、命令されて、形式的に
頭を下げたのである。商人が頭ばかりさげて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、
いたずらは決してやめるものではない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒の様なものから
成立しているかもしれない。

この小説に出て来る生徒は純真というわけではなく世の中を構成する狡い商人の予備軍のように書かれている。
利益を上げるためには狡さは必要であって、そういう意味では「人を乗せる策を教授する」方が良いのだろう。
ずるいとか、ずるくないというのは実際のところ、どうでもいいことだが、
ずるいのに倫理だ、道徳だ、優れた人格だとか言ってヨイショしなければならないところが面倒だ。
「この生徒の様なものから成立している世の中」と言った途端に次世代を担う若者への希望も消え失せる。

178ページ
「汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午前二時であった。
下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
『赤シャツも野だも訴えなかったなあ』と二人で大きに笑った。
その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた」

清と山嵐だけが救いだ。
彼らがいなければ坊っちゃんはザムザのようになってしまったかもしれない。
「不浄な地」を離れた坊っちゃんは清のいる東京へ帰る。
彼には帰るところがあったのだ。

吾輩は猫である

2015-09-27 00:05:01 | 夏目漱石
岩波文庫の「吾輩は猫である」を読んだ。
500ページ以上あってけっこう長い。テンポよく読めるが、読みやすい内容ではない。
平易な文章・リズム感・ユーモアといった要素を、村上春樹は夏目漱石から引き継いでいるのではないかと思う。
日本語で思考し、日本語で気持を伝える人々に訴えかけ、国民的作家と呼ばれるためには
日本語そのものの開拓が必要なのだろうが、二人の作家はそういうことを実践しているのだろう。
そのようにして編み出された表現が、私たちのどこかに強く働きかける。
その「どこか」を彼らは探り当てている。

151ページ
「僕は実業家は学生時代から大嫌いだ。金さえ取れれば何でもする、昔でいえば素町人だからな」
「・・・ところがその金という奴がくせ者で、―――今もある実業家のところへ行って
聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ―――
義理をかく、人情をかく、恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハハ」

漱石は「富豪や金力」を憎悪していたということだ。
「吾輩は猫である」が発表されてから100年以上が経過し世界はますます実業家のものとなってきた。
「素町人」といって蔑視するものではなく、自らの実力で事業を切り開いてきた大層立派な人物として
崇め奉らなければならなくなっている。ここは「町人が支配する世界」なのだ。
意志も無く、目的も無く、自己増殖を続ける資本の性質と
他者より上に立ちたい、他者の言いなりにはなりたくないという野心あるいは虚栄心と
世界中の至る所で次々と解放されてゆく一人ひとりの欲望の集積を掛け合わせた結果、
町人による絶大な支配が実現されるようになった。
車やテレビや洗濯機が普及して人々の生活が豊かになったとか、
スマホやインターネットの普及によって情報の発信と収集が容易になったとか、
それで「何かしら良くなった」ということになっている。
そしてそのような変化の一部を担うことが世界に参加することであり、
大きな変化をもたらすことがサクセスであり支配となる。
ずっとその中で生きてきたのであれば、資本の性質に協力する人生を讃え続けなければならない。
その外で生きようとすれば、それなりの報復を覚悟しなければならない。
「参加せざるを得ない」か「疎外される」のかどちらかになる。

276ページ
「超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ」

この本にはニーチェの超人がしばしば登場する。

326ページ
「・・・ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。
人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法廷へ訴える、法廷で勝つ、
それで落着と思うのは間違いさ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付くことがあるものか。
寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。
川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんといって隧道(トンネル)を掘る。
交通が面倒だといって鉄道を布く。それで永久満足が出来るものじゃない。
去ればといって人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。
西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。
日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない」

東洋思想が良いかどうかは置いといて、西洋思想は満足を得られるものではないとして批判されている。
村上春樹の作品にも「山を崩して海を埋め立てるのが立派なことだと思っている」というような文章があった。
「積極的」「進取的」という考え方には、意志に対する過剰な評価が背景にあるように思える。
不死を望む宗教は精神を神に準じるものとして同じ地位に祀りあげ、
自然を造り替えようとする意志に指導者あるいは支配者としての第一の資質を認める。
キリスト教の教義とプラトンのイデアが結びついた思想が西洋をずっと支配してきた。
そしてその西洋に支配された世界は近代化(西洋化)を強いられてきた。
民族古来の文明は初め衝突し、次には融合するだろう。
やがて達成されるであろう偉大な目的の実現のために何かしらの貢献をしているのだと、
微力ではあるが世界や社会や文明の進歩に尽くしているのだと、
そんなふうに信じていなければやり切れないというのがこの世界のルールとなり、
そうではない考え方は「消極的」とか「ニヒリズム」といって退けられる。
日本で融合した文明は「やる気」を見せようとか「改善」の姿勢を見せようとか
「建て前」という現象として生じる場合もある。
どこまで行っても「改善」であり「改革」であり「維新」であり、
どこまで行っても「不満足」である。

345ページ
「天気の悪いのに何故グード・モーニングですかと生徒に問われて七日間考えたり、
コロンバスという名は日本語で何といいますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫する位な男」

猫の主人である苦沙弥は胃弱を抱えた英語の先生であることから作者に近い。
頭脳明晰からは程遠く、迷亭やら八木独仙君に振り回される。
「天気の悪いのに何故グード・モーニング」なのか「七日間考えたり」するので悪人ではない。

356ページ
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。
第一今の学問というものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。
到底満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味わいがある。
心そのものの修行をするのだから」と先達て哲学者から承った通りを自説のように述べ立てる。
「えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙君のような事をいってるね」
369ページ
「自分が感服して、大に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも
及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、
迷亭のいう通り多少瘋癲的系統に属してもおりそうだ」

東洋思想(仏教、道教)もまた道化として扱われる。
迷亭というのは後の「高等遊民」のモデルということだ。何も生み出さないし、何も選べない。
猫や主人(苦沙弥)に語らせているが、作者も西洋思想も東洋思想も選べず、迷っているように感じる。

421ページ
「吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのは尤もだ。
人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば
人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は我輩もこんないたずらを書くのは
気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである」

己の本分をわきまえるというような道徳的なことは除外するとして、
己のことを知ろうとか、心のことを理解しようと努めても、ほとんど得るものがない。
私たちの思惟は玉葱のようなものであり、その表層を一枚一枚剥がしていけば、
最後に「己」という核にたどり着くのだとか、そういうわけではない。最後の核は最初の皮と何ら変わるところはない。
己の働きというのは、あるものと別のものの関係性ということであり、実体はないのかもしれない。
それは本来は対象ではないのだが、私たちは思惟する自己を対象と考えたりするので誤解が生じる。
デカルトが勘違いしたのも、そういうことではないかと思う。
「心が捉われている」とは自己を対象化している状態ではないかと思う。
無心というのは対象に没頭している状態ではないかと思う。