慶大日吉キャンパス
★煙る銀杏芽吹く気配を一心に 正子
葉を落とし休眠していたような銀杏の、寒い季節より巡ってくる健気な芽吹きの気配を感じ取られています。(祝恵子)
○今日の俳句
もてなさる一つに椀のあさり汁/祝恵子
もてなしの料理が並ぶなかの一つの椀があさり汁である。春らしい一椀に、ほっと気持ちが解きほぐされ、主客ともに春を
いただく気持ちが湧く。
○臼田亜浪ー俳句の「まこと」を求めてー
臼田亜浪は、私の俳句の師である川本臥風先生の先生である。臼田亜浪は、俳句では中間派と呼ばれている。「まこと」を求められたので、臥風先生からも「まこと」を求める精神を教わった。「まこと」を求める精神は、句作をはじめてから47年ほどになるが、ある意味「まこと」を求めて「自由」であることを許された気がする。亜浪先生も臥風先生も句風は清新であると思う。
小諸を訪ねて、亜浪先生の書をはじめ、羽織や火鉢など遺品を見たが、俳句から受けた印象と違うところがほとんどなかった。小諸の地形と浅間山が目に残っている。
★郭公や何処までゆかば人に逢はむ/臼田亜浪
この句を口ずさむと、漂白の日々を送る旅人の心がひしひしと胸に迫ってくる。おそらく 山道をひとり歩いていたのであろう。郭公が 背に鋭く鳴き続ける。その声は、切れ目があって、はかない一瞬を強く印象付ける。瞬間 の印象が強ければ強いほど、旅人の長い道は 、さらに長く果てしないものに思えてくる。この句はまた、「真」を求めた亜浪の人生の 旅を思い起こし、深い感動を与える。大正十三年、亜浪四十五歳のときの句だが、大正三年夏の体験が十年後の大正十三年に句となった。句集「亜浪句鈔」に収録。(高橋信之)
★鵯のそれきり鳴かず雪の暮/臼田亜浪
神奈川県中津での嘱目吟で、句の成ったその場にはかなりの句作者がいたというが、この句の鑑賞には、亜浪ひとりきりとしたい。鵯(ひよどり)の鳴く雪の景と真っ直ぐに向き合うのは、亜浪ひとりで、作者自身の内面に向けられた思いが深く、静かだ。それきり鳴かず」と言わしめた「雪の暮」は、しんとしての静かである。単なる写生でない本質を詠んだ。前書「中津行き」とある大正九年の作。亜浪四十歳のときで、その年、大須賀乙字が「石楠」を去った。(高橋信之)
亜浪先生逝去
★この冬空の下のどこにも先生亡し/川本臥風
亜浪の没年は、昭和二十六年である。
★雲雀落つ谷底の草平らかな/臼田亜浪
空の高みで鳴いていた雲雀は、急に鳴き止んで畑などに降りる、降りるというより、落ちる感じだ。この句では、谷底の平らな草の上に落ちたという。谷底のそれでも平らな草地は、雲雀が降りるのに相応しく明るく萌えている。山国の雲雀の雲雀らしさが詠まれた句。(高橋正子)
★ふるさとは山路がかりに秋の暮/臼田亜浪
亜浪のふるさとは、信州小諸である。山路がかる道を行けば、秋の暮れが迫っている。そうでなくても早い秋の日暮れに、山路がかりの道の秋の暮は早い。ふるさとの地を踏んだ懐かしさが、思いを深いものにしている。(高橋正子)
◇生活する花たち「黄水仙・梅・枝垂れ梅の花芽」(横浜日吉本町・金蔵寺)
★煙る銀杏芽吹く気配を一心に 正子
葉を落とし休眠していたような銀杏の、寒い季節より巡ってくる健気な芽吹きの気配を感じ取られています。(祝恵子)
○今日の俳句
もてなさる一つに椀のあさり汁/祝恵子
もてなしの料理が並ぶなかの一つの椀があさり汁である。春らしい一椀に、ほっと気持ちが解きほぐされ、主客ともに春を
いただく気持ちが湧く。
○臼田亜浪ー俳句の「まこと」を求めてー
臼田亜浪は、私の俳句の師である川本臥風先生の先生である。臼田亜浪は、俳句では中間派と呼ばれている。「まこと」を求められたので、臥風先生からも「まこと」を求める精神を教わった。「まこと」を求める精神は、句作をはじめてから47年ほどになるが、ある意味「まこと」を求めて「自由」であることを許された気がする。亜浪先生も臥風先生も句風は清新であると思う。
小諸を訪ねて、亜浪先生の書をはじめ、羽織や火鉢など遺品を見たが、俳句から受けた印象と違うところがほとんどなかった。小諸の地形と浅間山が目に残っている。
★郭公や何処までゆかば人に逢はむ/臼田亜浪
この句を口ずさむと、漂白の日々を送る旅人の心がひしひしと胸に迫ってくる。おそらく 山道をひとり歩いていたのであろう。郭公が 背に鋭く鳴き続ける。その声は、切れ目があって、はかない一瞬を強く印象付ける。瞬間 の印象が強ければ強いほど、旅人の長い道は 、さらに長く果てしないものに思えてくる。この句はまた、「真」を求めた亜浪の人生の 旅を思い起こし、深い感動を与える。大正十三年、亜浪四十五歳のときの句だが、大正三年夏の体験が十年後の大正十三年に句となった。句集「亜浪句鈔」に収録。(高橋信之)
★鵯のそれきり鳴かず雪の暮/臼田亜浪
神奈川県中津での嘱目吟で、句の成ったその場にはかなりの句作者がいたというが、この句の鑑賞には、亜浪ひとりきりとしたい。鵯(ひよどり)の鳴く雪の景と真っ直ぐに向き合うのは、亜浪ひとりで、作者自身の内面に向けられた思いが深く、静かだ。それきり鳴かず」と言わしめた「雪の暮」は、しんとしての静かである。単なる写生でない本質を詠んだ。前書「中津行き」とある大正九年の作。亜浪四十歳のときで、その年、大須賀乙字が「石楠」を去った。(高橋信之)
亜浪先生逝去
★この冬空の下のどこにも先生亡し/川本臥風
亜浪の没年は、昭和二十六年である。
★雲雀落つ谷底の草平らかな/臼田亜浪
空の高みで鳴いていた雲雀は、急に鳴き止んで畑などに降りる、降りるというより、落ちる感じだ。この句では、谷底の平らな草の上に落ちたという。谷底のそれでも平らな草地は、雲雀が降りるのに相応しく明るく萌えている。山国の雲雀の雲雀らしさが詠まれた句。(高橋正子)
★ふるさとは山路がかりに秋の暮/臼田亜浪
亜浪のふるさとは、信州小諸である。山路がかる道を行けば、秋の暮れが迫っている。そうでなくても早い秋の日暮れに、山路がかりの道の秋の暮は早い。ふるさとの地を踏んだ懐かしさが、思いを深いものにしている。(高橋正子)
◇生活する花たち「黄水仙・梅・枝垂れ梅の花芽」(横浜日吉本町・金蔵寺)