晴れのち曇り
草露のきらりきらりと無月なり 正子
●ネット短信No.423を昨日23時頃送信。洋子さんから返信。
●文学作品おもに俳句作品の批評に思うこと●
「自由な投句箱」には毎日一人三句、ほぼ十五句が投句される。投句された句に対して最初に私がすることは、俳句を読み吟味し、文脈上や文法の間違い、表現の曖昧さなどを指摘し、作者に訂正をうながすか、わかり切ったことであれば、私が訂正をする。これは普通添削と呼ばれている。私は基本的に句意や情景を変えることはしない。その後その日の秀句を一句か二句選び、コメントをつける。選句とコメントをする作業なのだが、これを間違えると、俳句指導者として体をなさない。インターネット上であるので、慎重な言葉選びが要求される。投句された俳句を「もっとも高く評価する」にはどう批評しコメントすればよいのかが、問題なのだ。
文章では、批評の役割として、俳句の価値を判断する一面をもっているが、作者や読者に新たな視点や理解をもたらす役割がある。添削やコメントを通して俳句を学んでいくのである。しかし、批評の言葉は「・・・と思う」で終わり、決して学術論文のように「・・・である。」では終わらない。
文学作品の批評の方法は古い方法から最近の方法までさまざまと言える。1作家論、2作品論、3テクスト論、4読者論、5イデオロギー論、6比較文学論、7歴史的批評、8心理学的批評、9新批評 など。これらひとつだけでなく、組み合わせて行われる場合がほとんどだろう。
このなかでテクスト論は読者論と近いとも言われているが、一九八〇年ごろから、俳句の批評もテクスト論から批評されているのではないか、と思う批評によく出会うようになった。個人的には、テクスト論がよくわかっていないこともあるのだろうが、この論で俳句を批評する危うさを感じている。テクスト論は構造主義、ポスト構造主義が日本で流行ったころから批評の主流を務めていると思っている。フランスの思想家ロラン・バルトが「作者の死」ということを言いだしたこともある。「作者の死」というのは、テクストの解釈が作者の意図から解放され、読者の解釈にゆだねられるというもの。これは、俳句における多義性や多層的な解釈と親和性が高いので、多くこの方法で批評、コメントされるのであろう。いったん発表された俳句は、作者の手を離れ、独立して歩む、という言い方をすることもある。しかし、この方法に於いて、私は、あまりに無謀か、恣意的と思える解釈に出会うことがよくある。特に異なる流派の句会に参加したときなどである。つまり、解釈の根拠が違っているのだ。極論すれば、「一緒に句会ができますか」と言うことが俳句では起きるのである。また「書いてあることを書いてある通りに読む」のは、至難の業なのであるからでもある。
私が今危うく感じていることを少しはっきりさせるために、とりあえずの問いを生成AIに投げかけた。生成AIを使う場合、生成AIの答えは「これまでの」知の集積からの返事であることに気を付けなければいけない。世間知からの答えということで、危ないと言えるが、とりあえずの反応がわかる。言葉の多義性と言葉の厳密性に矛盾はないか、恣意的解釈をどう防ぐか、(真理は読者それぞれにあるか)、解釈の根拠がはっきりしているか、内容の深みをどのように捉えるか、文脈とはなにか、これらがAIに投げかけた主なテーマ。
私:解釈は読者それぞれに任されるが、そのとき、読者は恣意的に解釈しないか。
AI:解釈の根拠がはっきりしていれば、防げる。
私:では、「根拠」は何によって根拠となっているのか。
AI:文脈である。
私:では、俳句において「文脈」は何を指すのか。
AI:「季語」「切れ字」「読者の背景」「作品の意図」「作品の発表された歴史的な時期」。
私:テクスト論では、言葉の多義性が作品の豊かさとなっているが、内容の深まりはどのように評価するのか。
AI:確かに内容の深まりは劣る。
私:言葉遊びを意図した俳句はどのように評価されるか。
AI:表現の豊かさとして評価が高まる。
私:言葉の厳密性と言葉の多義性は矛盾しないか。
AI:文脈がはっきりしていれば、根拠がはっきりするので、その矛盾は起こらない。
ここでロラン・バルトが、作品は読者に読まれて完結すると言う意味のことを言ったことを思いだすが、私も、俳句の場合は読者の解釈があって、完結すると思うと結論を出している。が、ここに来て、ロラン・バルトの言う「読者に読まれて完結する」意味と、俳句が「読み手に読まれて完結する」ことに、今日は、なにか違うような気がしてきた。現代俳句では、省略される主語は一人称の作者となっている。ロラン・バルトの言う「作者の死」は一人称の死ではないのか。これは私の考えで、即座に否定されるか、議論の余地がまだありとされるだろう。しかし、言語遊戯の俳句は「作者の死」によってさらに表現は豊かさを得るだろうし、多層的に解釈されることにより、作者の意図を越えさらに価値が膨らむことがある。それを作者が歓迎することの方が多いというのがAIの答えだ。そうなれば、世間で評価をうけるのは言語遊戯にはじまる、存在の軽さを読む俳句が多層的な意味をもつことで評価されるようになる。発表された作品はひとり歩きを始めるというが、まさにこのことだろう。
俳句が多義的、多層的に読まれることを許されるのは「根拠」がある場合とされるが、「根拠」が明確でない批評もある。そいうことから、今主流の俳句批評としてのテクスト論に違和感を覚えないでもない。
俳句の読み取り方、解釈の仕方について、私は俳句の師である川本臥風先生から、「俳句を作った人の身になって俳句を読むように」と言われた。「俳句を作った人に寄り添って」ではない。「読み手の身に自分を置き換えて」なのだ。この教えを受けたのは俳句初学のころで、一九六〇年代半ばである。この読み方による批評の方法は、「作家論」的と言えよう。まだ構造主義、ポスト構造主義が日本で言われ出す前の事だ。実際、この方法で批評すると、俳句の作者は「自分のことがよくわかってくれた。詠んだ景色はその通りだ」ということで、批評に納得し、自己実現をしたかのように喜ぶ。詠み手として作者は尊重されているのだ。アマチュア俳人にこの傾向が強いと思われる。
俳句は多角的に評価される必要があるのに、一句が十七音という余りにも短いことによって、一句をあまりに単純な評価で終わらせているのではないかと思えた。もちろん、句集と言うケースを考えた場合はおおむね多角的になされる。テクスト論は読者にゆだねられる分、わかりやすい一面をもっているとも言えるが、ジャーナリズムのように変化流動するものによるテクスト論による高い評価には、不備がともなっていることを、よくよく知らなければならないだろうと思う。
俳句の批評についてAIに投げかけて気づいたのは、「俳句の短さが起こす批評の不備と批評の安易さ」と言うことだった。