晴れ
●俳句歴を示すとき、おかしな現象が起きている。論文を書くときに、参考資料、参考文献を書かないのと同じようなことが起きている。研究論文は今たちどころに書く人だけの業績で成り立っているわけではない。先人の研究の積み重ねでできているので、根拠となる参考文献をあげなければ、いけないことになっている。中学生の作文でも参考文献はあげなければいけない。
俳歴を示すとき、自分が世話になった師や結社をとるに足らぬものとして、あるいは、社会的損得の見地から書かないケースがたくさん出てきている。その人の俳句の形成は初心のときに決まるといってよいが、師が著名でなければ書かないのだ。著名かどうかは、今はジャーナリズムによって決まっているので、本当の価値ではない。ジャーナリズに左右されて、俳句の伝統は既に失われている。
そう結論付けたのは、初心でお世話になったので、今回第3句集を出すので、原稿を読んでほしいと送ってきた人がいた。第2句集も入れてあった。そこでの俳歴にはちっともそのようなことは書かれていなかった。こういうことは、この人ひとりではない、今春出されたの句集にも見られた。十数年前の句集にも見られた。「田舎者」という単語があたる。私も田舎者で、田舎の様子を知るだけに、この単語をあてる意味はある。たしか実際「田舎者」には俳句はできないといわれていたことがある。
このことをよく踏まえて、俳句を考えなければいけない。妙なかたちで俳句を流行らせて、誰でもが俳句を作るのはよいが、人としての誠実さが失われているのにも頓着しない。今後は莫大な指導料を要求しなければ俳句の指導が成り立たなくなる。
先日亡くなったエリザベス女王を称えるのに、まず「faithful」と言う言葉が幾度となく述べられていた。日本語に訳しきれない意味があるが、忠誠とか、誠実とか正直とか言う意味がある。
安倍総理の国葬があったが、政治家に足りないのは「誠実さ」「正直さ」だと思う。