昨年3月11日東日本に大震災、大津波、続けて原発事故で被災地住民は各地へ避難を余儀なくされた、家族は引き離され、小中高の児童 学童 生徒等も、旧友と別れ見ず知らずの土地で新たな友を作らねばならなかった、だが子供の事ゆえ直ぐ友達も出来たであろうが矢張り母校の旧友は忘れがたいものが有ったであろう。 その離ればなれになった高校生が、母校の講堂がないまま、近くの学校の講堂を借りて、各地へ散った旧友たちが一堂に会して卒業式を行った、さぞかし嬉しかった事だろうと思う。中には津波で犠牲になった同級生の遺影を抱いて卒業証書を貰い、一緒に卒業した子もいた。 今朝3月2日の朝刊にこの写真と記事が載り、読んでいて涙が止まらなかった。 |
原発事故で散りじりになり他所の高校で分散して勉強していた高校生が、矢張り母校の講堂がなく間借りの講堂で卒業式を行い涙をぬぐう生徒の写真が掲載された、この涙がどんな感情の涙か分らない、苦労して卒業した喜びか、旧友と共に卒業できた喜びか、多分複雑な感情の表れであろう。 |
これは昭和20年2月の空襲で焼失し、その後再建されることなく、昭和22年に廃校になった、我が母校「富士前小学校」の校章である. |
昭昭和16年に勃発した戦争も19年末には戦況悉く不利に、本土空襲も熾烈を増し、 学童疎開が始まり、縁故疎開する者 集団疎開する者、旧友たちが散りじりに分散して仕舞った、昭和20年3月卒業の為疎開先から帰って来たが、母校は焼けて跡形なし、当時としては珍しい鉄筋作りの隣の昭和小学校屋上で卒業式が行われたが、 空襲警報が鳴り卒業式中断、その後藁半紙に印刷された卒業証書を受け取り、 何れ正式の卒業証書を渡す約束がそのまま放置された。 昭和20年から50年後に旧友の名簿作りが始まり、疎開時3クラス180人余いた同級生が、名簿には80人余しか記載できなかった。 2年間準備の末文京区役所 教育委員会、同区の校長先生、隣の昭和小学校の 校長先生には一方ならぬお世話になり、各界の協力の下、昭和小学校の全教員、 同校5~6年生全員、その父兄の皆様、我々の先輩諸氏が同席の上、平成9年3月1日多くの人に祝福され、見守られ、52年目にして小学校の卒業証書を手にする事が出来た。 |
当日3大新聞社、テレビ局何社か来て録画、同日夕翌朝 |