老いて楽しく

余生を楽しむ

戦争を語るー7

2018-11-17 08:56:28 | 日記
空襲激しく 学童疎開 手痛い歓迎
 
 物量に勝る米海軍と各地の海戦で、帝国連合艦隊も多くの空母をはじめ各艦船の損害激しく、威容を誇った帝国連合艦隊もその戦力を急速に失った。
 連合艦隊司令長官山本 五十六が飛行機で移動の暗号を米軍に解読され、待ち受けた米戦闘機に撃墜され、連合艦隊の大きな柱を失った。

 アッツ島をはじめラバウル航空基地撤退、南方諸島の玉砕相次ぎ、硫黄島は死闘のあと玉砕 マリアナ諸島 サイパン島にB29基地を建設、東京空襲が激しくなり、少国民保護で学童疎開が19年夏休みの終わり9月から始まった。

 先に大きな疎開が2つあったと書いたが、一つは空襲に備え家を壊す「強制疎開」防火地帯設定の為家の撤去、一つは「学童疎開」であった、田舎に親類が有り面倒を見てくれる人がいる人は縁故疎開 田舎のない人は集団疎開に行った、自分では山梨の母方の祖父母に預けられた、隣には叔父夫婦家族もいた。

 9月1日叔母に連れられ転校手続きは終わり、田舎の学校へ転入した、親しみ慣れた母校の旧友と離れ、見ず知らずの学校へ転入、不安と心配、親元を離れた心細さ、子供心に負担は大きかった。
 自分のクラスには疎開の児童が何人か居た、他のクラスにも何人か居た。

 疎開の生徒は学童服にランドセル、学帽をかぶり運動靴を履いて登校した、田舎の生徒は洋服の子が大半だったが、着物の子もいた中には姉妹をおんぶして通学する子もいた、、履物は手作りの藁草履 教科書ノート 筆箱類はひもで十文字に結んで持って来た、疎開者と地元の子が服装持ち物に差があった、それが地元の子にしては気に入らない、東京の奴等は生意気だと感じたようだ。

 学校の直ぐ脇に古墳を思わせる小山が有りてっぺんは狭いが平地が有り、そこへ疎開者を一人ずつ呼び出し10人ばかりで総殴りの洗礼をする、自分でもいつ呼び出されるかびくびくしていた、ついにその日が来て10数人にぼこぼこに殴られ、洋服はポケットがむしられボタンはみんな飛んでいた、自分でもどのように暴れたのか記憶にない、数人が鼻血を出し唇が切れたり目の周りを青くしていた奴もいた、自分でも顔 むこう脛 太腿に大きなあざ 唇は切れ頭はたんこぶだらけ だが泣かなかった。

 いくら祖父母 叔父叔母と言っても、両親兄弟とは違い心細く淋しかった、そんな中で暴力の洗礼、小学校正門前に村役場が有り、叔父がそこへ勤めていた、暴力を受けた直後叔父の所へ行き顔を見た時初めて涙が出て泣いた、役場の女性が傷の手当てをしてくれた、とても優しく嬉しかった。

 集団疎開の級友は那須烏山に疎開した、それなりに苦しみ辛さが有った様だが、体験していないので書けない。 
 

疎開中の山梨県日川村 此の砂利道は甲州街道(国道20号線)、当時勝沼から甲府行きのバスが通る以外、自動車はあまり通らない。
リヤカーを引くのは小生、リヤカーに乗っているのと押しているのは従姉妹達。
奥に見える校舎はこんな片田舎に旧制中学が有り進んだ村で、今は日川高校になっている。

 
従兄弟たちと川遊びをする、魚の手掴み漁法を教わったり、鰻捕りの仕掛けを20個ほど作り、夕方鰻が遡上しそうな所へ仕掛ける、翌早朝仕掛けを上げに行くと、4~5本の天然鰻が掛かっている、従兄弟は鰻捕りの名人だった。
東京は空襲も激しくなりつつあったが、田舎はまだのんびりしたところもあった。
 
国破れて山河在りの譬え、上の写真は昭和19年 下の写真は平成24年 70年近い隔たりがあるが背景の山並みは姿は変わらず、故郷は懐かしき哉