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戦争を語るー1

2018-10-28 11:31:40 | 日記
大東亜戦争開戦
 
 小生よりずっと年の若い友人から、戦争について知っている事を教えて欲しいと言われた、だが自分では終戦の時はまだ国民学校6年生を卒業したばかり、現地で敵と向かい合って鉄砲を打ち合ったという経験はない、只開戦から終戦そして戦後の事は、記憶にあるから書けると伝え、自分の体験した事をメールで送ると伝えたところ、戦争を知りたい人のグループが有り、ブログに投稿してくれれば皆一緒に読めるので、ブログに投稿してくれと依頼された。

 それはいいけれど小生既に戦争についていくつか投稿しているので、重複する所が有るかも知れずその点ご容赦願って投稿しようと思う。

 なにせ75年以上も前の体験、事実を曲げたり誇張したり思い入れは抜きにして記憶にある事実体験を記述していくが、古い事ゆえ史実と違う点があるかもしれないが、その点はご容赦願って自分の体験を記述していこうと思う。

                 大 戦 勃 発

 千島列島のある基地を南雲中将率いる日本の艦隊は密かに、ハワイの真珠湾を目指して航行していた、航空母艦6隻 戦艦2隻 重巡2隻 軽巡3隻 駆逐艦5隻 潜水艦 特殊潜航艇5艘 航空機360機,。

 昭和16年12月8日朝6時頃だろうか、ラジオが普通番組を中断『臨時ニュースを申し上げます』と2回繰り返した記憶がある、その内容は、大本営発表 『本8日未明帝国陸海軍は西太平洋に於いて米英軍と戦闘状態に入れり』と報じた、ここに第2次世界大戦がはじまった

 真珠湾攻撃は艦載雷撃機と特殊潜航艇だった、特殊潜航艇は爆薬を積み2人乗りで、敵艦に体当たりして自爆の潜水艇、特殊潜航艇の9人が後に「軍神」と崇められた、5艇10人なのに何故9人なのか子供心にも疑問が残った、後で分かったが一艇は座礁して一人は戦死一人捕虜になった、それ故に軍神は9人になった。
 奇襲攻撃に近かったので、米軍の対応が遅れ、我が艦艇は損害なく航空機十数機を損失。

 真珠湾攻撃が始まった後、宣戦布告したのでアメリカにすれば宣戦布告なしの奇襲攻撃と言う、その辺は小生子供だったからよくわからない。

 宣戦布告の大詔はとても名文だ、ウエブ上に公開されているからお読みになるといい、只小生気になるのは冒頭の「天祐を保有し」の文言、戦争は食うか食われるかの争い、天の助けなど有り得ない。

 此の事は鎌倉時代、元の軍船数百隻、10万の軍勢が博多湾に押し寄せ大国難、博多湾に防戦石垣を築き激戦に備えた、だが運よく大きな台風が襲来、元の軍船が沈没或いは大破、命からがら母国へ逃げ帰り国難が去った、確かに天祐である、弘安4年夏の事である、そんな故事を参考に天祐と言ったのか。

 第2次世界大戦を太平洋戦争と言うが、当時日本は「八紘一宇」の精神を掲げ、世界は皆家族同様平和に暮らそうの目標達成を目指していた、戦争名も「大東亜戦争」と銘打っていた。
 
昭和16年当時のラジオも う少し近代的のものもあった。
NHK放送博物館資料より拝借
 

魚雷を抱いた艦載雷撃機、これが真珠湾の米艦に猛攻を加えた、当時の日本軍備は世界に冠たるものだった。
日本の海軍力が強大で、軍艦建造をアメリカ5 イギリス5 日本は3の軍艦補強を米英が要求してきた、5、5、3の軍備制限だ。 
この写真ウイキーぺデアより拝借

 
日本雷撃機による攻撃で、真珠湾停泊のアメリカ太平洋艦隊が撃滅した、
ウイキーぺデアより拝借
 
靖国神社 遊就館に陳列されている特殊潜航艇
 
靖国神社 遊就館に陳列されている零戦
 
今も博多湾に数多く残る元寇に対する防塁石積。ウイキーぺデアの資料より拝借