72年前の今日は我が家は一家揃って、山梨県へ疎開していた、疎開先は山梨県の甲府盆地、甲府市を離れること東へ三里、ブドウの産地勝沼から下った、甲府盆地の東外れ葡萄と桃がとても旨い所だ、四方山に囲まれ擂鉢の底のような地形、夏は物凄く暑く、冬は冷え込みがきつい土地、此処が両親の育った土地。
3月9日深更から10日早暁に掛けての東京大空襲、四方猛火に包まれ逃げ場なし、幸いにも我が町内が、奇跡的に延焼を免れ、九死に一生得た、この惨状を見た父親が、「此の侭では一家全滅する」と一家疎開を決断、4月半ばに上記土地へ一家疎開した。
6月6日深夜から7日未明に掛け甲府市がB29の爆撃を受けた、三里も離れた土地の大火災 空は真っ赤に染まり、甲府市は阿鼻叫喚の渦だったと思う、だが目の前四方を猛火に包まれた経験を経た自分では、対岸の火事 高見の見物と云った様な心境だったのか、戦争は我が身の苦しさを味わい、人の心も分かる筈だが、何故か甲府の火事を対岸の火事と見てしまった、戦争は人の心を荒ませる、此の甲府空襲を七夕空襲などと云う。
72年前の8月15日は、山梨地方朝からギンギラの太陽が照り付け、今でいう猛暑日だったかも知れない、父親は親類の空き地数反歩を耕して居た、暑いので早朝畑仕事をして日中休む(朝作り)をして朝食に帰ってきた、朝のニュースで今日12時に、天皇陛下の重大放送が有ると云っていた、父親は 6月23日に沖縄戦が終了して、いよいよ本土決戦を告げられると覚悟したようだった。
12時前に家族がラジオの前に集まった、中学一年の小生には陛下の言葉は難しかった、聞き終わり父親が戦争に負けたと話してくれた、父親の心境は日清 日露 支那事変と負けを知らぬ日本が、戦争に負けた、明治生まれの頑固者許せなかっただろう、だが半面、中支へ行っている長男 軍属で輸送船に乗っていた二男が帰ってくる、此の喜びの方が大きかったのではないか。
子供心にも警戒警報が発令されると、着替えをして脚絆(ゲートル)を巻き、眠れぬ夜、夜は灯火管制で明かりを暗くしての生活、何よりもB29の空襲がなくなったのが良かった。 平和は戻ったが、その後物凄いインフレが襲った、一夜明けると米一升の値段が上がっている、インフレ抑制の為、当時一番の高額紙幣100円札に証紙を張った物でないと通用しない等の処置がとられた。
玉音放送を聞いた人も、インフレを知る人も少なった。
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