60年~70年ほど前になるだろうか、戦時中だったか戦後だったか泉岳寺を副数人で訪れた記憶がある、その時期と顔ぶれを全く思いだせない、泉岳寺へ行った事だけは記憶に残っている、山門も本堂も意識の中に余りなかったが、整然と並んだ四十七士のお墓は記憶に鮮明だ、唯 今ほど墓地周りは整備されていなくてもっと鄙びた感じだった。
今回行ってみて、墓所へ通じる道は石が敷き詰められ、綺麗に整備されていた。
総ケヤキ造りの中門で、天保7年、大龐梅庭和尚(だいほうばいていおしょう)によって再建され、昭和7年に大修理がおこなわれた。 |
扁額には「萬松山」とあり、中国清代の禅僧、為霖道霈(いりんどうはい)の書である。 |
非常に立派な山門で、二階部分には十六羅漢が安置され、一階天井には江戸三大龍の一つ銅彫大蟠龍(だいはんりゅう)が埋め込まれている。 | 泉岳寺の額の文字は 晋唐の墨蹟研究者 大野 約庵の書によると言われる。 |
二階へ上がる階段が付いた山門はそう多くは見かけない。 | 山門を裏から見ると、形の良い松の先に山門が見え、裏からの眺めも素晴らしい。 |
泉岳寺本堂、掲げられと額には「獅子吼」(ししく)と読み、お釈迦様の説法です。 | 立派な本堂である。この写真を写した左方向に、浅野 匠頭守夫妻と四十七士の墓所がある。 |
浅野匠頭守のお墓 | 奥方「瑤泉院」のお墓 |
大石内蔵助のお墓、唯一屋根が掛っている | 「瑤池梅」瑶泉院が堀部妙海尼に贈った鉢植えの梅を、妙海尼自身が、この地に植えかえした。 |
血染めの梅 血染めの石、田村氏邸内で浅野 匠頭守自刃の場所に有った | 首洗いの井戸、此の脇に明治の「オッペヶぺ―節」で一世を風靡した川上 音二郎の碑が有る、首洗いの井、古い石の囲いを寄贈したようである。奥右手の碑が、音二郎の碑。 |
「天野屋利兵衛男でござる」芝居で使われた言葉かどうか知らぬが、義士打ち入りに、大変貢献した豪商の碑。 |
義士全ての戒名に刃と剱の字が入っている。 |
義士達のお墓、線香の煙が絶えない。 | 四十七士墓所への門。 |
大石主税他九人は、三田 松平 隠岐守邸内の、此の梅の木の下で切腹したと伝えられる。 | 大石義雄銅像 |