西行さん終えんの地、弘川寺を訪れました。
西行さんほど桜の花を愛した歌人はいないのではないでしょうか。

西行さんは鳥羽上皇の警備を担う北面の武士でしたが、23歳の時に突然出家してしまいます。

その後、各地を巡りながらたくさんの和歌を残しました。

「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」という歌は、死の数年前に作られたそうですが、その歌の通り弘川寺で73年の生涯を閉じたそうです。

少し登ると、西行堂が見えてきます。ここで過ごしたのは晩年の2年ほどのことです。

さらに登ると、西行さんのお墓があります。まだ少ししか咲いていませんでしたが、間も無く見ごろを迎えることでしょう。

西行さんが生きた時代は、武士が台頭した時代です。保元・平治の乱、その後の源平合戦を経て鎌倉幕府の成立、その時代を生きた人でもあります。

北面の武士の頃は、平清盛とも同僚で、きっと友達だったのでしょう。だからかどうか、平家びいきです。

一番高いところまで登ってきました。弘川寺には2度訪れているのですが、ここまで来たのは初めてです。

ツツジも綺麗でした。

西行さんの頃にはソメイヨシノは無く、桜といえば山桜だったのでしょう。(あまり自信はありませんが。)

吉野山も山桜です。西行さんは若い頃に吉野山にも庵を結んでいました

吉野山の桜もそろそろ咲きだす頃でしょうか。今年は久しぶりに吉野山の西行庵まで歩いてみようと思います。

山桜が山の中に咲いている風景は、大好きな風景です。

山の中にパッと明かりが灯ったようです。

ハモクレンも綺麗でした。

西行さんもこの山道を歩いたのでしょうか。

大好きな桜に囲まれて、歌の通り桜の咲く頃に入寂されました。

西行さんが入寂されたのは、旧暦の2月16日といわれています。現在では3月中旬以降の満月の日にあたるそうです。

桜が咲き始めた弘川寺で、しっかり西行さんをしのぶことができました。

※訪問日 2021.3.23
<おまけです>
門前には花大根(アプリ曰く)が咲いていました。

ジョウビタキ(雄)も遊びにきてくれました。

すぐ近くまで寄っても逃げませんでした。

弘川寺の最後はバードウォッチングになりました。

西行さんほど桜の花を愛した歌人はいないのではないでしょうか。

西行さんは鳥羽上皇の警備を担う北面の武士でしたが、23歳の時に突然出家してしまいます。

その後、各地を巡りながらたくさんの和歌を残しました。

「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」という歌は、死の数年前に作られたそうですが、その歌の通り弘川寺で73年の生涯を閉じたそうです。

少し登ると、西行堂が見えてきます。ここで過ごしたのは晩年の2年ほどのことです。

さらに登ると、西行さんのお墓があります。まだ少ししか咲いていませんでしたが、間も無く見ごろを迎えることでしょう。

西行さんが生きた時代は、武士が台頭した時代です。保元・平治の乱、その後の源平合戦を経て鎌倉幕府の成立、その時代を生きた人でもあります。

北面の武士の頃は、平清盛とも同僚で、きっと友達だったのでしょう。だからかどうか、平家びいきです。

一番高いところまで登ってきました。弘川寺には2度訪れているのですが、ここまで来たのは初めてです。

ツツジも綺麗でした。

西行さんの頃にはソメイヨシノは無く、桜といえば山桜だったのでしょう。(あまり自信はありませんが。)

吉野山も山桜です。西行さんは若い頃に吉野山にも庵を結んでいました

吉野山の桜もそろそろ咲きだす頃でしょうか。今年は久しぶりに吉野山の西行庵まで歩いてみようと思います。

山桜が山の中に咲いている風景は、大好きな風景です。

山の中にパッと明かりが灯ったようです。

ハモクレンも綺麗でした。

西行さんもこの山道を歩いたのでしょうか。

大好きな桜に囲まれて、歌の通り桜の咲く頃に入寂されました。

西行さんが入寂されたのは、旧暦の2月16日といわれています。現在では3月中旬以降の満月の日にあたるそうです。

桜が咲き始めた弘川寺で、しっかり西行さんをしのぶことができました。

※訪問日 2021.3.23
<おまけです>
門前には花大根(アプリ曰く)が咲いていました。

ジョウビタキ(雄)も遊びにきてくれました。

すぐ近くまで寄っても逃げませんでした。

弘川寺の最後はバードウォッチングになりました。
