はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

西安の旅 15

2016-09-14 19:29:11 | 中国の旅
15回にわたって綴ってきた西安の旅も、いよいよ最終回です。



乾陵の次は茂陵ですが、その前に昼食です。今日も農家料理をいただきました。本場の中国料理も、これが食べ納めかもしれません。


麻婆豆腐は見た目ほど辛くなかったです。


薄いビールを飲むのもこれが最後でしょうか?日本のビールが恋しいです。


乾陵の周辺はぶどう畑が広がっています。道端で売っているぶどうを買いに行ったら、おじさんが、ぶどう畑に案内してくれて、思わずぶどう狩りができました。


おいしいぶどうでした。



いよいよ最後の訪問地、茂陵(もりょう)です。茂陵は前漢の第7代武帝(前156~前87)の陵墓です。


ここで中国の歴史のおさらいです。春秋戦国の時代を経て、はじめて中国を統一したのが、昨日行った秦の始皇帝です。前221のことです。しかし、この秦はすぐに滅んでしまいます。次に興ったのが漢で(今いるのが第7代皇帝の陵墓)、その後、三国時代、五湖十六国時代、隋、唐(さっきまでいたのが第3代皇帝の陵墓)、五代十国、宋、元、明、清、中華民国、中華人民共和国、とつづきます。まさに栄枯盛衰の歴史と言えますね。

そうそう茂陵でしたね。こんもりした山が茂陵です。


茂陵の領域には、武将のカクキョヘイのお墓もありました。こちらの方が目立っていました。


屋根がいい感じに反ってますね。あちらこちらと移動して、さすがに疲れました。茂陵は簡単に見学です。


※残念ながら写真はありませんが、このあたり(いわゆる田舎です)のトイレ事情は昔とあまり変わっていないようです。私も入ろうとしましたが、一歩入って後ずさりしてしまいました。どんな様子かは、ご想像にお任せします。


5日目の夕食は、ホテルでバイキングにしました。最後の晩餐と言ったところでしょうか?ビールはバドワイザーしかありませんでしたが、待望のワインが飲めました。



6日目は日本に向けて帰るだけです。西安空港を8時のフライトなので、ホテルを6時に出発です。


上海で乗り換え、関空に着いたのが日本時間の15時30分でした。関空に着いて、まず思ったことは、「人が少ない!」ということでした。


久しぶりの海外旅行でしたが、中国通の教授や張さんのおかげで楽しく旅をすることができました。

15回にわたって「西安の旅」をお伝えしましたが、いかがだったでしょか。いつも見ていただいてありがとうございました。

<完>

西安の旅 14

2016-09-13 19:31:11 | 中国の旅
西安の旅も5日目を迎えました。6日目の明日は、早朝から飛行場に向かうので、西安の旅も実質最終日となります。
今日は乾陵(けんりょう)・茂陵(もりょう)に向かいます。最後まで学術的な旅になりました。


乾陵は西安から約80キロの所にあるので、今日も大型タクシーをチャーターです。


さて、乾陵には、唐の三代皇帝の高宗と、中国唯一の女帝である則天武后(中国では「武則天」)が合葬されています。この乾陵ですが陪塚もふくめて広大な敷地です。122元(約2000円)の入場券を買って、広大な敷地なので、見学用車両30元を払って出発です。
まず向かったのが陪塚です。三つの有名な陪塚を廻ったのですが、誰もが若くして亡くなった皇子や皇女のお墓です。話せば長くなるので止めておきますが、みなさん則天武后から死を賜ったようです。ここは、その一人永泰公主のお墓です。


地下に向かって長い墓道がつづきます。両側の壁には壁画が描かれていたようですが、本物はひっぺがされてセンセイ博物館に収められています。


花があると、つい反応してしまいます。


乾陵博物館には、お墓からの出土品などが展示されていました。


日本との関係を示す資料もありました。唐の時代には、盛んに遣唐使を派遣していましたからね。


高松塚とよく似た壁画もありました。


また、花です。


陪塚周辺の景色です。このあたりは中国の農村といった佇まいです。気分は宮本常一になって、田舎の暮らしも見てみたかったのですが、そんな時間はありませんでした。


こちらは庶民のお墓です。土まんじゅうが見えます。


さて、いよいよ乾陵に向かいます。長い神道がつづいています。


振り返ると乳頭峰が、そこも陵域というのですから驚きの広さです。


六十一蕃臣の像ですが、すべて頭部が破壊されていました。


「唐高宗乾陵」の碑がありました。一番上まで登れるようですが、ここまでにしておきましょう。


この乾陵は未盗掘だそうです。もし、発掘されるようなことがあれば、ここも世紀の大発見となることはまちがいないでしょう。しかし、これまで盗掘されていないことからも分かるように、山の岩石や鉛で頑丈に守られていると言うことです。
そうそう、この高宗が活躍した時代は、日本では、天武天皇が壬申の乱を経て飛鳥浄御原宮で即位した頃のことです。そういえば、天武天皇も皇后の持統天皇と合葬されていましたね。

<つづく>

西安の旅 13

2016-09-12 19:30:30 | 中国の旅
兵馬俑から西安市内にもどり、少し旧市街を歩いてみます。
どこか見たことがある通りだなと思っていたら、初日の夜に訪れた回民街でした。あいかわらず賑やかな街です。






その一角に「高家大院」がありました。歴史人物あるいは有名人の旧居を高家大院と呼ぶそうです。ここは高岳先生の旧居だそうです。(その人のことは知りませんが)ここでは、明・清時代の芸術・文化を見ることができます。舞台では、中国の楽器で演奏と歌をやっていました。


影絵も見せてもらいました。「西遊記」の一場面でした。この切り絵は、紙ではなく皮なんですよ。その後、ちゃっかり切り絵の販売もしていました。


せっかくなのでお家も見せてもらいました。この旧家は4つの中庭を持つレンガと木で造られた四合院というものらしいです。86も部屋があるそうで、400年以上の歴史があるそうです。


歴史を感じると言うか、手の凝った調度品です。



4日目の夕食は、「火鍋」と思っていたのですが、行ったお店が2時間半待ちということで諦めました。中国では「火鍋」が流行っているそうです。ということで、「北京ダック」のお店にしました。


食事ではずっと薄いビールを飲んでいたので、中国のお酒が飲みたくなったのですが、白酒(パイチュー)の大きな瓶しかないので諦めました。日本では中国のお酒と言ったら「紹興酒」が有名ですが、これはいわゆる「紹興」という地方のお酒なんでしょうか、西安では見かけなかったです。ところで、この白酒ですがお酒好きの私もお手上げのお酒です。


今夜からヒルトン西安にホテルがかわりました。


お部屋には、博物館に飾ってあったような置物がありました。


<つづく>

西安の旅 12

2016-09-11 20:58:50 | 中国の旅
兵馬俑には、実は2号抗、3号抗があったのです。
どちらも1号抗ほど広くはありませんが、ここにも貴重な兵馬俑が埋まっているようです。


2号抗に展示されていた兵馬俑です。


3号抗は、1・2号抗の軍隊を統帥する司令部ということらしいです。戦車に乗る司令官なんでしょうか。


博物館の窓枠も戦車のデザインでした。


別棟の展示館には、始皇帝陵の近くで発掘された銅車馬などが展示されていました。


始皇帝の愛車ですね。ロールスロイスと言ったところでしょうか?



ここで昼食です。兵馬俑の近くにある農家料理をいただくことにしました。
びっくりしたのが食器です。パックされた食器が用意されていました。料理は省略します。(いつもと同じような料理でした)



次に向かったのは、始皇帝陵です。兵馬俑とは目と鼻のさきです。


広いので、バスに乗って見学をします。それにしても、運ちゃんすごい格好ですね。


これが始皇帝陵です。ただの丘のように見えますね。高さは76メートルで、一辺が約500メートルの四角錐の形状をしているようです。未盗掘ということらしいのですが…。


未盗掘ならいったいどれだけの遺構が残されていることでしょう。地下宮殿をはじめ莫大な宝物が納められていることでしょう。兵馬俑も霞んでしまうような世紀の大発見になることは間違いないでしょう。

<つづく>

西安の旅 11

2016-09-10 19:38:11 | 中国の旅
西安の旅4日目は、いよいよ兵馬俑です。



西安から約36キロも離れた所にあるので、大型タクシーをチャーターして向かいました。
さすが、中国でも人気のスポットです。たくさんの人が押し寄せていました。さっそく秦の始皇帝が出迎えてくれました。


兵馬俑1号俑抗が見えてきました。


さあ、いよいよ兵馬俑と対面です。期待がふくらみます。


広い空間の下には、兵馬俑がずらりと並んでいました。奥行きは230メートルもあるらしいです。それにしても、たった一人の人間のためにこれだけのものを…。


1974年(今から42年前)に、井戸を掘っていた農民が偶然に見つけたものが、なんと世紀の大発見だったのです。


兵士達は東を向き、後方にある始皇帝陵を守っているということです。


ほぼ等身大の兵士は、ひとり一人の顔もそれぞれちがっています。


発掘は現在もつづいているようです。いったいどれだけの規模の遺構なんでしょう?


けっこう修復も大変な感じですね。というのも、この兵馬俑ですが、破壊された状態で出土しているのです。


こんな状態で土に埋まっているようです。かなり破壊されているのがわかります。秦を滅ぼした項羽(四面楚歌の人です)の仕業といわれています。


もともとは彩色されていたようです。永い眠りから覚めて、空気に触れると色があせていくそうです。


この兵馬俑が造られたのは、紀元前200年頃というのですから、中国の歴史の奥深さを感じさせられました。


西安に来る前に、大阪で兵馬俑展を見てきたのですが、やっぱり本物の迫力には数万倍かないませんね。


西安まではるばるやって来た甲斐がありました。

<つづく>