はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

笠置寺は深い山の中にありました

2016-02-28 19:43:32 | 寺社めぐり
伊賀街道(国道163号線)を木津川に沿って東に進むと、やがて対岸に関西本線の線路が見えてきます。しばらく行くと、笠置橋があり、そこを渡れば笠置山への登山口となるはずだったのですが…。馬鹿ナビに従ったのがいけなかったようで、変なところに着いてしまいました。結局、15分ほど山道を歩いてなんとか笠置寺には着きましたが、完全に道を間違えたようでした。

笠置寺は、山深い静かな寺でした。日曜日なのに参詣客もほとんどいません。(1グループに出会っただけでした)入山料も寺務所に箱があり、そこにお金を入れるようになっていました。

笠置寺の略記によれば、1300年前、東大寺の実忠和尚、その師良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、その仏を中心として修験道場として栄えたといいます。
 (磨崖仏と正月堂)

残念ながら本尊の阿弥陀大磨崖仏は元弘の乱の兵火(後醍醐天皇最後の砦となった)で表面が焼失してしまい像はまったく見えません。
 (阿弥陀大磨崖仏)

もう少し先にある虚空蔵磨崖仏は線が残っていました。高さは15メートルもあるそうです。
 (虚空蔵磨崖仏を見上げる)

境内は修行場めぐりとなっています。覚悟してなかったもので、ここで引き返しました。
 (胎内くぐり)

実忠和尚は修行場のひとつ千手窟で二月堂の「お水取り」の行法を感得し、阿弥陀大磨崖仏の礼拝堂である正月堂で第一回をおこなったそうです。そういえば、東大寺の二月堂を調べていたときに、「正月堂」はないのかと調べていたら、笠置寺の正月堂のことが出ていました。(ここに一月堂がありました?)
 (苔むす古寺)

山門の下には雉料理屋がありましたが、そちらの方がにぎやかな感じがしました。いつも愛用している京都寺社めぐりのガイドブック「京都の寺社505を歩く」にも、「お寺を拝観するというより遺跡を訪れるといったほうが正解かもしれない。」とありました。
道には迷いましたが、人生の道には迷わないようにお祈りしました。

京都城南宮のしだれ梅

2016-02-26 19:30:06 | 花めぐり
私の写真の先生の先生が、ブログに城南宮のしだれ梅の写真をアップされていました。見頃のようだったので、私もさっそくカメラ片手に観梅に出かけました。



名神高速道路の京都南インターのすぐそばに、城南宮はあります。いつも近くを通っているのに、訪れたのは今回が初めてです。



苑内に入ると、たくさんのしだれ梅と甘い香りが迎えてくれます。「春の山」といわれる庭園には、150本のしだれ梅や椿が植えられています。



こんなにたくさんのしだれ梅を観たのは初めてのことです。みごとな景色です。



城南宮のある一帯は、平安時代の後期に白河上皇や鳥羽上皇が鳥羽離宮を築いて院政をおこなっていたところだとか、華やかな王朝の香りがしました。



2月もあと少しになりました。春がどんどん近づいて来ています。


天竜川に沿って

2016-02-24 17:00:57 | 本の話
3月になったら行こうと思っている旅があります。なぜ3月かというと、「青春18きっぷ」が使用できるからです。行き先は、「天竜川に沿って」走る飯田線の旅です。
飯田線は、「秘境駅」が多数あることで有名な路線です。実は、2011年の夏に「秘境駅号」で行ったことがあるのですが(「秘境駅号の思い出」15.6.22のブログ)、今回は普通列車の旅です。飯田線だけで7時間ほど乗るそうなので、行く前から躊躇している私ですが…。
 (飯田線普通列車 2011.8.28)

さて、私の敬愛する人物のひとりに民族学者の宮本常一さん(1907年~1981)がいます。代表作「忘れられた日本人」などの著作で知られ、73年の生涯に、16万キロもの行程を日本全国に印した、旅する民俗学者です。
その宮本常一著作集別集の中に『私の日本地図』全15巻があり、それが未来社から復刻刊行されています。今回紹介するのは、その1巻になっていた『私の日本地図 天竜川に沿って』です。(未来社刊では、14回目に配本されました)


今回、飯田線の旅を思いついたのも、この本を読んだのがきっかけですが、宮本常一さんは、飯田線で呑気に乗り鉄の旅を楽しんでいたわけではありません。沿線から何十キロも奥に入ったところにある村々に泊まり込んでの調査をしていました。
あとがきにこんなことばを書いています。
「たとえば静岡県水窪町の地頭方の村と領家方の村の住居、耕地のあり方の差にまず目がとまり、さらに杉の植林の仕方にも、両者に差のあることを発見したときは心を打たれた。一つの村の全体を見おろす場所に立ってジッと見ていると、いろいろのことを考えさせられ、またいろいろの疑問がわいてくる。しかも景観の語りかけている事実ほど正直なものはない。」
まさに宮本観察眼のすばらしさを感じさせてくれます。

 (平岡駅から見た天竜川 2011.8.28)

私の写真でもわかりますが、すでに天竜川には砂が堆積して浅くなっています。昔は、きれいな水が深いところを流れていたことでしょう。宮本さんが旅した頃も、すでに川が埋まってきていることを書かれています。

宮本さんは、この天竜川に沿った地域を昭和17年から39年にかけて旅をされたようです。(この本の写真は昭和34年と38年のものが多い)昭和36年に天竜川では大水害が発生しました(三六災)。とくに大鹿村の被害は甚大であったようです。宮本さんが旅したのは、その2年後のことで、災害の生々しい爪痕も写真に残されていました。宮本さんは、この災害の原因を上流部での広大な山林の伐採によるものだと考えています。しかも地元の人達には、何ら利益をもたらさなかった事業の。

飯田線のことにもふれています。まだ「秘境駅」という言葉がなかった時代です。
「飯田線は、水窪駅から長いトンネルをぬけて天竜川のほとりの大嵐(おおぞれ)に出ると、そこから飯田市の天竜峡駅までの間は、川沿いの断崖の下を走ってトンネルを出たり入ったりで、トンネルの数はおびただしい。そして、トンネルとトンネルの間に小さな駅がひっそりとある。乗降の客はごくわずかであるが、飯田線は外部から文化の光をみちびき入れてくれる重要な窓なのである。」
 (トンネルの数はおびただしい 2011.8.28)

飯田線の旅は、おびただしい数のトンネル(138あるらしい)をぬけて、また、おびただしい数の駅(途中駅は92)に停まりながらの鉄道旅になりそうです。宮本常一さんのような観察眼で景色も眺めてくるとしましょう。

※ただの風邪ひきだと思っていたら、なんとインフルエンザの判定がくだりました。従って、ただいま自宅謹慎中であります。




阪急中津駅のホームは日本一らしい

2016-02-21 18:15:00 | 鉄道
土曜日は一日中雨でした。今日は、まあまあの天気でしたが、珍しく風邪をひいてしまい、家でおとなしくしていました。ということで、題材も無いのですが…。ちょっと前に阪急中津駅に立ち寄ったことでも書きましょう。

阪急電車の梅田の次にある駅が中津駅です。神戸線と宝塚線の普通のみが停車する駅です。そして、この駅はプラットホームの狭さで有名なのです。日本で一二を争うほどの狭さというのですから、鉄ちゃんとしては行かねばなりません。
 (噂の中津駅ホーム)

梅田から歩いてもすぐです。国道176号線(大阪人は、イナロクって言います)を歩いていると、中津駅のホームが見えてきます。
 (イナロクから駅が見えます)

階段を下りたところに駅舎?がありました。もちろん反対側からも行けますよ。ガード下は昭和の匂いがプンプンするところです。(今回は、町探訪はありません)
 (中津駅です)

狭い階段を上がっていくとホームです。梅田よりの端っこに階段があります。
 (神戸線のホーム)

となりは、宝塚線の列車です。そうしているうちに、梅田行きの列車も入ってきました。このホームですが、十三よりでは更に狭くなっています。
 (島式ホームの両側に列車)

ところで、宝塚線のとなりには京都線も走っているのですが、プラットホームがありません。これにもいろいろと事情があるようですが…(鉄道の歴史は奥が深いですね)。簡単に言うと、最後に京都線が出来たのですが、ホームを作る場所がなかったからだとか?ちなみに今でも、京都線は十三が起点ということで、十三~梅田間は宝塚線に乗り入れるかたちをとっているそうです。

京都の歴史を探訪しました

2016-02-18 20:10:52 | 京都をぶらり
京都は「千年の都」といわれるように、長い歴史をもったまちです。歴史が層になって積み重なっているのが、京都のすごいところと思います。

はじめに行ったのは、平安京の大内裏(だいだいり)です。京都の歴史は平安京遷都から始まるのですが、その中心が大内裏です。大内裏は、政治の中心地で天皇の住まいである内裏(だいり)を含めた場所です。現在の霞ヶ関と皇居を合わせたような場所といえます。(今の京都御所は、ずっと後の時代になってからのもので、場所もちがいます)

その大内裏のあったところは、二条城の北西のあたりに位置します。千本通丸太町を上がったところに公園があり、そこに立派な石碑が建っています。最近の調査では、本来の大極殿の位置はここではなく、少し離れた千本丸太町の交差点上にあったとのことです。(まあ、そんなにかわりませんが)
 (大極殿遺址と書かれていました)

 (よく見ると「源氏物語ゆかりの地」とあります) 

1220年ほど昔には、ここに大極殿があり、桓武天皇がここで高御座(天皇の玉座)に座し、様々な儀式を執り行ったのでしょう。今は、風景もすっかり変わり、平安時代を偲ばす物は何もありません。当時のメインストリートだった朱雀大路(今は、千本通になっていますが、当時は道幅84メートルもある大路でした、千本通は25メートルほど)もなく、近くに16分の1になった神泉苑が残るぐらいでしょうか?

下立売通を東に向かって歩いていくと、内裏跡があります。昔からの油屋さんの庭のようなところに説明板が立っていました。
 (このあたりに内裏があったようです)

 (やはり「源氏物語…」)

 (油屋さんは歴史を感じさせる建物です)

平安時代を楽しんだあとは、戦国時代です。大内裏跡の東北の角に聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の跡があります。聚楽第は、天下を統一した豊臣秀吉が造ったお城というか御殿というしろものです。天下人の秀吉らしく、周囲1800メートルもある大きな敷地に、金箔瓦の建物であったそうですが、8年後には取り潰されたので詳しいことはわかっていません。
 (児童公園横のマンションにあった説明板)

 (発掘された石垣)

 (正親小学校前に立つ石碑)

さすがに歴史の町です。聚楽第のあった周辺には戦国大名にちなむ地名が残っています。秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛ゆかりの「如水町」やら、官兵衛が一時期名乗っていた小寺姓にちなむ「小寺町」などがあります。
 (黒田如水ゆかりの町)

 (ここも官兵衛ゆかりの町)

 (官兵衛の屋敷跡)

小寺町の近くには、陰陽師で有名な安倍清明を祀る清明神社があります。(また、平安時代に戻ってきましたね)
 (清明神社)

戻ってきたといえば、すぐそばに「一条戻橋」もあります。今回は詳しくは書けませんが、安倍清明や戻橋の話はまたゆっくりとしましょう。
 (一条戻橋)

戻橋の上で、もしやと思いましたが、やっぱり(河津)桜でした。(まだ、2月17日、北山は雪のようでしたよ)
 (今回ただ1枚の美写真です)

最後は、また戦国時代に戻っておしまいとしましょう。織田信長が室町将軍の足利義昭のために築城したのが、旧二条城です。今の京都御所のすぐ西側にありました。そこを友人のヒゲさんが発掘中なので見せてもらいました。(以前にも登場してもらいました。「京都の深層を見てきました」)マンション建設に伴う発掘です。京都では、こんな狭いスペースの発掘の積み重ねで、昔の姿を調べているんですね。
 (けっこう深い層です)

 (ヒゲさんです)

急ぎ足で、平安時代から戦国時代を歩いてみました。石碑ばかりで美しい写真はありませんでしたが、お付き合いいただきありがとうございました。