はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

「夢の山岳鉄道」で上高地に行こう

2021-05-02 13:50:50 | 本の話
昔から上高地に登山鉄道があればいいなと思っていました。
しかし、30年も前に上高地鉄道のことを考えている人がいました。
その人は、知る人ぞ知る鉄道紀行の第一人者の宮脇俊三さんです。
1991年、JTBの月刊誌『旅』に「夢の上高地鉄道」が掲載されました。
もちろんその時は知らなかったのですが、最近買った文庫本で知りました。

『夢の山岳鉄道』宮脇俊三(ヤマケイ文庫)



上高地に行くにはマイカー規制あるので、沢渡駐車場(岐阜県側はあかんだな駐車場)に車を置いて、バスかタクシーで入るしかありません。
それでも年間170万人もの人が訪れるそうです。観光バスで訪れる人も多く、夏には渋滞も見られます。
そんなことを解決するのが鉄道だと著者は主張します。確かにそうなれば二酸化炭素排出削減にも繋がります。

それでは「上高地鉄道」に乗って旅を始めましょう。

「上高地鉄道」の始発駅は沢渡駅です。今はバスの停留所ですが。(注:今回の写真は全て過去に撮った写真です。)




現在は釜トンネルまでは国道158号線を走りますが、「上高地鉄道は」国道の改修によって廃棄された旧道などを利用してつくられた軌道を走ります。




こんなイメージで梓川に沿った軌道を走ります。(注:これは黒部峡谷鉄道です。)




釜トンネルが見えてきました。このあたりに中ノ湯駅がつくられます。ちなみに、沢渡駅・湯川渡駅・梓(信号所)・中ノ湯駅と続きます。




いよいよ難関の釜トンネルです。昔は左の旧トンネルを通っていましたが、信号待ちで15分ほど待たされることがありました。ちなみに現在のトンネルは2005年に完成しました。
さて、釜トンネルは勾配がきつく車もエンストしたそうです。そんな勾配(100パーミル)を鉄道が登れるのでしょうか。ここで登場するのがラックレール(歯型のレール)です。




釜トンネルを抜けて産屋沢に到着です。左手に焼岳が姿をあらわします。ここには信号所がつくられます。




ラックレールから解放されれば、まもなく前面に穂高の山並みが見えてきます。大正池駅で降りる人はご準備をお願いします。




大正池駅に到着です。駅前には、上高地ならではの絶景が広がります。




上高地らしい林間を塗って「上高地鉄道」は走ります。大正池駅ー上高地駅間には、田代池駅と帝国ホテル前駅があります。



著者の鉄道のイメージですが、ゲージはJRと同じ1067ミリで長さ12メートルの短めの車両(カーブが多いため)を六両編成で走らせます。
車内の設計は、梓川側はクロスシートで天井までガラス張り、山側はロングシートになります。




左手に赤い屋根の上高地帝国ホテルが見えてきました。




帝国ホテル前で下車し、ホテルに立ち寄ってケーキと紅茶をいただきましょう。




終点の上高地駅に到着です。こんなイメージでしょうか。




上高地駅はカラマツの囲まれた駅です。(私としては、更に鉄道をのばして横尾あたりまで繋げたいのですが‥。)




上高地駅前は登山に向かう人や観光をする人などで賑わっています。




駅から5分も歩けば河童橋です。そして、こんな絶景が待っています。




「上高地鉄道」の旅はいかがでしたでしょうか。私も乗ってみたいですが、生きているうちに夢がかないそうにありません。

おうち時間に任せて、妄想鉄道旅がつづきそうです(笑)

※『夢の山岳鉄道』では、「上高地鉄道」の他に「富士山鉄道・五合目線」・「比叡山鉄道」・蔵王鉄道」など、全16の夢の山岳鉄道が綴られています。

剱岳 点から線へ

2020-09-13 13:51:39 | 本の話
昨日、梅田に行く用事がありました。少し時間があったので、紀伊国屋書店で本を物色していて目にとまった本が『劔岳 線の記』です。

剱岳に関する本は、新田次郎の小説『劍岳<点の記>』がよく知られています。2008年には映画化もされ、もちろん映画も観に行きました。
私が剱岳にリベンジの登頂を果たしたのが2007年でしたが、ちょうど撮影が行われていたような(撮影が終わったあとかも)そんな記憶があります。



新田次郎の『劍岳<点の記>』は小説ですが、もちろん史実に基づいて書かれています。剱岳は日露戦争の直後、1907年(明治40年)に陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎らによって初登頂されました。
小説では、日本山岳会と初登頂争いをしていたように小説らしくおもしろく描かれています。それが事実だったのかはわかりませんが、登頂に苦労したことは事実だったと思います。今でも「カニのタテバイ」や「ヨコバイ」など難所が多い山です。
そうして苦難の末に初登頂したはずの山頂には、なんと古い時代(奈良時代から平安初期)の錫杖頭(修験者の持つ杖の頭)が残されていたのです。柴崎さんたちはショックだったでしょう。
私もその錫杖頭には興味があったので、立山博物館で見学したことがあります。

「劔岳にそんな昔に登った人がいたのか。錫杖頭が残されているということは、きっと修験者だろうな。」と、凡人の私が思うのはそこまででした。
ところが、この本の筆者の高橋大輔氏(どこかで聞いた名前ですが。)は、劔岳ファーストクライマーを「いつ」「誰が」「どのように」「どの(ルートから)」「どこに」「なぜ」を求めて迫りました。



「考えられるあらゆる可能性を検証するため現地に何度も足を運び、当時使われたであろうルートから登頂して導き出した、その答えとは・・・・・?」(帯のキャッチコピーから)

興味のある方は書店で求めてください。ちなみにお値段は1,700円です。

山にも行けない日々ですが、山の本を読んで、山に登ったつもりになるのもいいものです(笑)

ヤマケイの話

2019-02-17 21:07:00 | 本の話
旅の話題が尽きたので、久しぶりに本の話題です。
久しぶりに「ヤマケイ」3月号を購入しました。特集は、「登山者のための自然読本」です。「山のポケット自然図鑑」という付録もついています。


登山経験は長いのですが、その割には高山植物の名前や野鳥の名前が分かっていないので、今年はこのポケットブックを連れて歩こうと思います。

ところで、雑誌「山と渓谷」は高校生の時からの付き合いになります。新田次郎の『孤高の人』も当時の山渓に連載されていたのを読んでいました。
ヤマケイには山登りに関してはずいぶんとお世話になりました。山の装備に関しても山行のガイドとしても役立たせてもらいました。
そんなヤマケイですが、50年間ずっと購読していた訳ではなく、気が向けば購入していたという感じです。
最近はほとんど購入もしていなかったのですが、友人から教えてもらって久しぶりに購入しました。


せっかくの機会なので、もう1冊紹介します。ヘルマン・ブール著『八000メートルの上と下』です。


この本を読んだのも高校生の時だと思うのですが、ひょっとするともう少し後かもわかりません。ヘルマン・ブールは、ヒマラヤの魔の山といわれたナンガ・バルバート(8125m)に奇跡の単独初登頂をした登山家です。そのヘルマン・ブールの自伝が八000メートルの上と下です。
最近、この本をもう一度読みたいと思っていたのですが、絶版のようで本屋にはありませんでした。そこで、知り合いに頼んで古本をネットで入手してもらいました。
読み進めるにしたがって、青春時代にヒマラヤに憧れていた夢が蘇ってきました。

山に関する愛読書はまだまだあるのですが、また機会があれば紹介したいと思います。

天竜川に沿って

2016-02-24 17:00:57 | 本の話
3月になったら行こうと思っている旅があります。なぜ3月かというと、「青春18きっぷ」が使用できるからです。行き先は、「天竜川に沿って」走る飯田線の旅です。
飯田線は、「秘境駅」が多数あることで有名な路線です。実は、2011年の夏に「秘境駅号」で行ったことがあるのですが(「秘境駅号の思い出」15.6.22のブログ)、今回は普通列車の旅です。飯田線だけで7時間ほど乗るそうなので、行く前から躊躇している私ですが…。
 (飯田線普通列車 2011.8.28)

さて、私の敬愛する人物のひとりに民族学者の宮本常一さん(1907年~1981)がいます。代表作「忘れられた日本人」などの著作で知られ、73年の生涯に、16万キロもの行程を日本全国に印した、旅する民俗学者です。
その宮本常一著作集別集の中に『私の日本地図』全15巻があり、それが未来社から復刻刊行されています。今回紹介するのは、その1巻になっていた『私の日本地図 天竜川に沿って』です。(未来社刊では、14回目に配本されました)


今回、飯田線の旅を思いついたのも、この本を読んだのがきっかけですが、宮本常一さんは、飯田線で呑気に乗り鉄の旅を楽しんでいたわけではありません。沿線から何十キロも奥に入ったところにある村々に泊まり込んでの調査をしていました。
あとがきにこんなことばを書いています。
「たとえば静岡県水窪町の地頭方の村と領家方の村の住居、耕地のあり方の差にまず目がとまり、さらに杉の植林の仕方にも、両者に差のあることを発見したときは心を打たれた。一つの村の全体を見おろす場所に立ってジッと見ていると、いろいろのことを考えさせられ、またいろいろの疑問がわいてくる。しかも景観の語りかけている事実ほど正直なものはない。」
まさに宮本観察眼のすばらしさを感じさせてくれます。

 (平岡駅から見た天竜川 2011.8.28)

私の写真でもわかりますが、すでに天竜川には砂が堆積して浅くなっています。昔は、きれいな水が深いところを流れていたことでしょう。宮本さんが旅した頃も、すでに川が埋まってきていることを書かれています。

宮本さんは、この天竜川に沿った地域を昭和17年から39年にかけて旅をされたようです。(この本の写真は昭和34年と38年のものが多い)昭和36年に天竜川では大水害が発生しました(三六災)。とくに大鹿村の被害は甚大であったようです。宮本さんが旅したのは、その2年後のことで、災害の生々しい爪痕も写真に残されていました。宮本さんは、この災害の原因を上流部での広大な山林の伐採によるものだと考えています。しかも地元の人達には、何ら利益をもたらさなかった事業の。

飯田線のことにもふれています。まだ「秘境駅」という言葉がなかった時代です。
「飯田線は、水窪駅から長いトンネルをぬけて天竜川のほとりの大嵐(おおぞれ)に出ると、そこから飯田市の天竜峡駅までの間は、川沿いの断崖の下を走ってトンネルを出たり入ったりで、トンネルの数はおびただしい。そして、トンネルとトンネルの間に小さな駅がひっそりとある。乗降の客はごくわずかであるが、飯田線は外部から文化の光をみちびき入れてくれる重要な窓なのである。」
 (トンネルの数はおびただしい 2011.8.28)

飯田線の旅は、おびただしい数のトンネル(138あるらしい)をぬけて、また、おびただしい数の駅(途中駅は92)に停まりながらの鉄道旅になりそうです。宮本常一さんのような観察眼で景色も眺めてくるとしましょう。

※ただの風邪ひきだと思っていたら、なんとインフルエンザの判定がくだりました。従って、ただいま自宅謹慎中であります。




今、忌野清志郎のこと

2015-09-18 20:19:36 | 本の話
私が大好きなミュージシャンに忌野清志郎がいます。正確には「いました。」です。2009年に58歳で亡くなっちまったんですが…。
日本の「キング・オブ・ロック」と言われた忌野清志郎が、10年以上も前にこんなことを書いています。

<日本国憲法第9条に関して人々はもっと興味を持つべきだ>
「地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかい事を言い始めてる。国民をバカにして戦争にかり立てる。自分は安全なところで偉そうにしてるだけ。阪神大震災から5年。(略)
この国は何をやってるんだ。復興資金は大手ゼネコンに流れ、神戸の土建屋は自己破産を申請する。これが日本だ。私の国だ。とっくの昔に死んだ有名だった映画スターの兄ですと言って返り咲いた政治家。弟はドラムを叩くシーンで僕はロックン・ロールじゃありませんと自白している。政治家は反米主義に拍車がかかり、もう後もどりできやしない。そのうち、リズム&ブルースもロックも禁止されるだろう。政治家はみんな防衛庁が大好きらしい。人を助けるとか世界を平和にするとか言って実は軍隊を動かして世界を征服したい。(略)
いったいこの国は何なんだ。俺が生まれて育ったこの国のことだ。君が生まれて育ったこの国のことだよ。どーだろう、…この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか?戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺達はジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう。きっと幸せになれるよ。」


まるでリアルタイムで清志郎が言っているようです。

『瀕死の双六問屋』忌野清志郎著(小学館文庫)より。(もともとは、2000年に光進社から単行本で発売されCDもついていたそうです。)



さあ、「くたばっちまう前に 旅に出よう もしかしたら君にも会えるね」かも知れませんね。(忌野清志郎『JUMP』より)