はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

暑い中を古墳見学に行きました

2024-07-10 18:15:15 | 古代史の舞台を歩く
岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群に行きました。
結論を先に言うと、素晴らし古墳群でしたが、こんなに暑い日に行く所ではありませんでした。

古墳群はこの風土記の丘にあります。後ろの山がそうでした。
和歌山県立風土記の丘は、特別史跡「岩橋千塚古墳群」の保存を目的に1971年に開設されたそうです。


地図を見て歩くコースを検討しました。園内を一周すると約3kmで80分もかかるようです。
まだ入口ですが、この暑さではとても一周は無理です。


立派な資料館があり、ここでしっかりと(クーラーがきいて涼しかったので)予習をしました。


舗装はされていますが坂道を登って行くと、古墳が現れました。


ここの古墳群は、岩橋型横穴式と呼ばれる石室が特徴のようです。


全体としてはこんな感じの円墳です。古墳の数は園内に約500基もあるそうです。


汗を拭きながら坂道を上がります。前方後円墳が現れました。


埴輪が並んでいます。埋葬時もこのように並べられていたのでしょう。


この古墳群を築いたのは、この地の豪族の「紀氏(きうじ)」と云われています。


山の上なので景色も綺麗でした。緑の所は紀ノ川です。


遠くには高速道路の橋脚も見えました。


頂上?付近にある将軍塚古墳です。長さが42mある大きな前方後円墳です。石室内部にも入れました。


半周ぐらいはしたでしょうか。あまりの暑さにここからショートカットして下山しました(笑)


古墳好きの私としては興味深い所でしたが、暑さに負けて詳しく見ることはできませんでした。
次に行く機会があれば冬に行きたいと思います。(今度は寒すぎるかな)


岩橋千塚古墳群の近くに紀伊國一の宮の伊太祁曽神社があったので、お詣りして行くことにしました。


最近、各地の一の宮に関心があります。最近では伊勢国椿大神社、越後国弥彦神社にお詣りしました。


初めて知ったのですが、紀伊の国には一の宮が三社もありました。


伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)も、一の宮らしい風格のある神社でした。


一の宮巡りも面白くて最近の旅では必ず訪ねるようにしています。
ちなみに我が大阪では、摂津国住吉大社、和泉国大鳥神社、河内国枚岡神社となっています。

※訪問日 2024.7.9


平城宮跡で古代史三昧の一日

2024-01-20 18:15:15 | 古代史の舞台を歩く
平城宮跡と佐紀古墳群で一日たっぷりと歴史のお勉強をしました。

朱雀門です。この日は素晴らしい晴天でした。


まずは「いざない館」で1時間ほど学習しました。いざない館は立派な建物で最新の技術で奈良時代を学ぶことができます。しかも無料です。さすが国土交通省です。
そのあとレンタル自転車を借りて広い平城宮跡を巡ったり、近くの佐紀古墳群を巡りました。


大極門からみる大極殿です。


大極殿には何年振りかの訪問です。この建物は平城遷都1300年にあたる2010年に造られました。


このあと奈良文化財研究所の平城宮跡資料館で学習をして、西大寺駅前の商業ビルで昼食をとり、佐紀古墳群へと向かいました。


まずやって来たのは「佐紀陵山古墳」(垂仁天皇妃・日葉酢媛の古墳とされています)佐紀古墳群の詳しい説明は省きますが、興味深い古墳群の一つです。


こちらは隣にある「佐紀石塚山古墳」(成務天皇の古墳とされています)


佐紀陵山古墳と佐紀石塚古墳は接近して造られています。両古墳の間の道を進みます。


こちらは「五社神古墳」(神功皇后の古墳とされています)


そして「佐紀高塚古墳」(称徳天皇の古墳とされています)このあと「市庭古墳」にも立ち寄って、平城宮跡へと戻りました。


平城宮跡に戻って、最後にもう一ヶ所、東院庭園に向かいました。


奈良時代の庭園を見学するの初めてでした。


鳳凰もいました。


平安時代の庭園と違うといえば違うし、似ているといえば似ているというのが印象でした。


最後は「撮り鉄」です(笑)平城宮跡を走る近鉄電車も何十年か先には見られなくなるそうです。


平城宮跡や佐紀古墳群には何度か訪れたことがあるのですが、今回は資料館にも入りしっかりと学習することができました。
奈良時代は私の好きな時代なので多くの資料に接して楽しかったのですが、人間ドラマが見えて来ないのが残念でした。
あまりもドロドロとした歴史はタブーなんでしょうか。

※訪問日 2024.1.17

乙訓寺で紅葉と歴史を楽しみました

2022-12-06 19:15:15 | 古代史の舞台を歩く
長岡京市にある光明寺を訪ねたあと、乙訓寺(おとくにでら)も訪ねました。
このお寺は歴史的人物がたくさん登場するお寺で、歴史好きには興味深いお寺です。


大きな楠が迎えてくれます。4月中旬から下旬には、2000株の牡丹が咲く「牡丹寺」だそうです。




「大慈山」と額のかかる山門です。乙訓寺は京都最古とされる広隆寺(603年)と同時期の創建だそうです。




紅葉もまだ見頃のようでした。




記録によれば811年に弘法大師(空海)が嵯峨天皇から任命されて乙訓寺の別当を務めたそうです。




翌年には伝教大師(最澄)がここを訪れ、密教についての法論を交わしたという記録が残っているそうです。




乙訓寺では、弘法大師も興味がありますが、もう少し前の時代に起こった事件が一番興味深いです。




長岡京は桓武天皇が平安京の前に造営した都です。




長岡京遷都から間もない785年に造長宮使の藤原種継が暗殺されます。




その事件に関わったとして、桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)は乙訓寺に幽閉されました。その後、流罪となりその途中で絶命します。




その後、桓武天皇のまわりでは不幸が続きましたが、これは早良親王の祟りと恐れられたそうです。




怨霊を恐れた桓武天皇は、淡路島に葬られていた早良親王に崇道天皇という称号を送り、奈良に陵墓を改葬し、京都の御霊神社に崇道天皇を祀りました。
日本三大怨霊と呼ばれているのが、菅原道真、平将門、崇徳天皇ですが、早良親王は日本で最初の怨霊ということでしょうか。


※訪問日 2022.12.3

宝来山古墳を訪ねました

2021-12-11 15:55:55 | 古代史の舞台を歩く
今回は、奈良市にある宝来山古墳を訪ねました。近くには唐招提寺や平城宮跡があります。
紅葉も終了した今は特に撮りたい被写体も無く、近場で知的好奇心を満たしてくれる古墳巡りにはまっています。
(本当は冬のアルプスの姿を撮りに行きたいのですが、信州の天気は変わりやすく、おまけにガソリン代が高くて遠出もままらないからです。)


宝来山古墳(垂仁陵)は美しい姿をした前方後円墳です。周濠も広くて古墳を引き立てています。




この島は垂仁天皇の命により常世国に不老不死の実を求めて使いに行った田道間守(たじまのもり)の墓とされる陪塚です。




前方部の先の方には生駒山が望めました。




第11代垂仁(すいにん)天皇陵として宮内庁によって管理されています。




周辺にはいくつかの陪塚がありました。




すぐ横を近鉄橿原線が走ります。




こちらは特急です。




田道間守が不老不死の国から持ち帰ったのは橘といわれています。




広々とした水濠ですが、実は江戸時代に御陵を修復した時に、ため池のような用途で改造されたそうです。




ところで、宮内庁によって管理されている垂仁陵ですが、垂仁天皇が生きた時代は4世紀前半と考えられています。(実在しなかったと考える学者もいます)




ところが、この古墳が造られたのは4世紀後半から5世紀前半と考えられ、100年も差があるそうです。(天皇陵にはこんな話が多いです)




近くに安康天皇陵があります。安康天皇といえば宋に使いを送った「倭の五王」の「興」に比定される大王ですが、治定されている天皇陵はどうやら古墳ではないようです。




古墳巡りは本当に面白くて興味がつきません。最後に美しい宝来山古墳の姿を空からもご覧ください。




宝来山古墳を訪れたのは二度目のことです。伊勢街道を歩いている時に立ち寄りました。
大阪から「暗峠(くらがりとうげ)」を越えて奈良に向かう途中に宝来山古墳があります。
ここから三条通をまっすぐに進めば興福寺に至ります。

※訪問日 2021.12.10

初冬の今城塚古墳をぶらり

2021-12-09 19:15:15 | 古代史の舞台を歩く
久しぶりに高槻市にある今城塚(いましろづか)古墳を訪ねました。
この古墳は何度か訪れたことがあり、これまでもブログにも書いたので覚えておられる方もあるかもしれません。
今城塚古墳は真の継体天皇陵と考えられている古墳です。
天皇陵といえば宮内庁により厳重に管理されており、立ち入る事は出来ません。
ところがここは公園になっていて、古墳の上にも登ることができます。
古墳ファンにとっては大興奮の古墳なのです。


継体天皇は、越前(あるいは近江)から来たとされています。応神天皇から5代目の孫にあたるそうです。楠葉宮(大阪府枚方市)で即位しましたが、大和に入るまで20年もかかったそうです。




とかく謎の多い天皇ですが、今の天皇につながる天皇だと考えられています。継体天皇の孫である用明天皇の子が、あの聖徳太子です。




墳丘の道は、どこかの山を登っているような道です。




木の間からは高槻市の中心部が見えました。




後円部の石室のあったあたりですが、戦国時代の伏見地震で崩壊したそうです。




今城塚という名称は、戦国時代に砦として使われていたことに由来するそうです。




今城塚古墳には埴輪祭祀場があったそうです。




復元された埴輪が当時を物語ります。




この日は、まるで秋のような気候でした。




古墳公園は市民の憩いの場になっていました。




フユザクラが咲いていました。




フユザクラ越しの今城塚古墳です。




古代歴史館にも入りました。1/100の模型ですが、美しい姿をした古墳です。




当時は葺石に覆われていたようです。




近くにある太田茶臼山古墳(継体天皇陵古墳)です。もちろん立ち入り禁止です。




フェンス越しに眺めた太田茶臼山古墳です。こちらも立派な古墳で大王級の人が葬られているのでしょう。




このあと藤原鎌足の墓といわれる阿武山古墳に向かったのですが、遠くてあと2キロという所でリタイヤしました。
また次の機会に訪ねたいと思います。



※訪問日 2021.12.9