はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

廃線のトンネルを車で通りぬけました

2015-08-31 16:53:50 | 分水嶺の旅
関西には、「廃線ハイキング」として有名な、福知山線の生瀬~武田尾があります。トンネルをいくつか通り抜けて歩くハイキングコースです。(実は、私は行ったことがありませんが

今回紹介する柳ヶ瀬トンネルも廃線になった鉄道のトンネルです。ただし、通れるのは車のみです。(大型車・二輪・自転車・歩行者通行禁止)
もともとは、国鉄北陸本線が走っていました。昔、北陸本線は今の北陸自動車が通っているコースを走っていました。このトンネルは1884年(明治17年)に完成したそうです。(今から131年前のことです。えっ、このトンネルって130歳を越えているんですね!)完成した当時は、日本で1番長いトンネル(1352メートル)だったそうです。
ところが、1957年(昭和32年)に現在のルート(余呉湖の横を通り、深坂峠を越えるコース)に変更されて、それ以降は、県道として利用されるようになったらしいです。
ルートが変更されたのは、あまりの急勾配のために、汽車が立ち往生したり、トンネル内で窒息死する乗務員がいたからだそうです。(70年あまりの間に12名もの機関士が窒息死したらしいです。)そんなこともあってか、地元では「お化けトンネル」と言われているそうです。

さて、前置きが長くなりましたが、実際にトンネルを通ってみましょう。国道365号線を木之本から北上すると、写真のような分かれ道があります。左が365号線で栃の木峠を越えて越前市に、右が県道140号線で柳ヶ瀬トンネルを抜けて敦賀市へ向かいます。
(右に行くと柳ヶ瀬トンネル 右上は北陸自動車道)

鉄道は単線だったので、幅は狭いです。だから信号で交互通行にしています。やっと青信号になりました。さあ、出発です。
(雨の滋賀県側入口)

トンネル内は、狭くて、暗くて、おまけにカーブはしているし、お化けのことも気になるしで、とても緊張して運転しました。
何分かかったでしょう?やっと福井県側に出ました。すぐにUターンして、もう1度くぐります。(また、行くんかい!)今度は信号がかわるまで時間があったので、じっくりと福井県側のトンネル入口を撮影しました。歴史を感じさせる風格があります。(向こうから汽車が走って来そうな感じです)
(福井県側入口、左は北陸道の橋脚)
(雰囲気がありますね。しかし、狭い!)

ところで、あまり知られていないことなのですが、このトンネルの上を分水嶺が通っているんですよ。ちなみに「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の清水トンネルの上にも分水嶺が通っています。

おまけです。ここに北陸線が走っていた痕跡が、もう少し木之本よりの国道にも残っていました。
(旧中之郷駅のプラットホームと駅名板)


淀川の源流を訪ねて (分水嶺の旅)

2015-08-30 20:50:09 | 分水嶺の旅
我が家は淀川べりにあります。そう言えば、マンションの名前にも「淀川」が、ついていました
いつも散歩をしている淀川ですが、その源流はどこにあるのか?調査の旅をしてきました。(ちょっと大袈裟ですが)

大阪湾から淀川を遡れば、山崎あたりで宇治川・木津川・桂川の3つの川に分かれます。さて、どれを行こうかということで、宇治川を選びます。宇治川はやがて瀬田川になり琵琶湖に行き着きます。琵琶湖に流れ込む川はたくさんありますが、姉川がよさそうです。なぜなら高時川が流れ込むからです。そして、高時川を遡れば、いよいよ源流に行き着くのです。(ちょっと強引ですが。)

川沿いに行くのは大変なので、もちろん道路沿いに行きました。名神高速から北陸自動車道に入り、木之本ICでおりて、国道365号線を北に走ります。北陸道に沿った国道です。
(サルスベリがきれいに咲いていました)
(横を北陸道が走る)
写真の分かれ道を左に進みます。(右に行くと、おもしろいものが待っているのですが、それは、また次回のお楽しみに)

どんどん山の中に入っていきます。雨も降り出しましたよ。
(雨が降ってきました)

道はきれいに整備されています。(以前、走った時は、きびしい道だったと思うのですが)やがて、余呉高原スキー場が見えてきました。ここは、滋賀県と福井県の国境の栃の木峠(とちのきとうげ)です。
(滋賀県と福井県の県境の栃の木峠)
(栃の木峠の由来)

ところで、峠とか県境という言葉が出てきたら、そこは分水嶺ですよね。そうなんです、ここは空から降った雨が、太平洋か日本海か、に分かれていく運命を決める分水嶺なのです。
そして、ついに見付けました。今回の旅の目的、淀川の源流である「淀川の源」の碑です。
(これに会いに来ました)

ここのことは、実は、ヤマケイ文庫から出ている『日本の分水嶺』(堀 公俊著)で知りました。(この本のことは、5月6日にも紹介しました)
分水嶺というものは、日本の背骨で、陸地の真ん中を通っていると考えてしまいますが、この栃の木峠では日本海(敦賀湾)からわずか5キロほどなんです。そして、大阪湾までは130キロもあるんですよ。なぜそうなったのかは、琵琶湖の誕生と関係があるらしいですよ。
それにしても、ここに降った雨は130キロの旅をして大阪湾に流れて行くのですね。(妙に感激!)

(雨で霞む国道365号)
帰り道は、一段と雨脚が強くなっていました。さすがに国境の地です。(この雨は、もちろん淀川に流れていきます。)






高松塚古墳あたりをぶらり (古代史の舞台を歩く)

2015-08-28 14:12:10 | 古代史の舞台を歩く
元薬師寺を訪れたついでに、近くにある国営飛鳥歴史公園(高松塚周辺地区)に行ってきました。
以前にも訪れたことがありますが、「中尾山古墳」のことが気になっていたので、再訪問となりました。

高松塚古墳は教科書にも載っているので、誰もが知っている古墳だと思います。しかし、有名なのは石室内に描かれた色鮮やかな壁画で、古墳の全体像については、あまり知られていないのではないでしょうか。
(意外と小さい古墳です)
それでも、直径18m、高さ5mの二段式の円墳です。造られたのは、藤原京の時代(694年~710年)と考えられています。被葬者は特定されていませんが、天武天皇の皇子説や臣下説、朝鮮半島の王族説などがあるようです。
(説明板の拡大)
壁画が発掘調査で見つかったのは、1972年のことです。もう43年も前のことになるのですね。教科書に載っていると言っても、50歳未満の人たちしか見ていませんね。
しかし、この壁画は発見されたおかげで?大変な目に会っています。カビがはえて、薬品をかけられ、それでもだめなので、現在ははぎ取られて修復されているとか…。
(別角度から)
たしかに二段式に見えます。発見当時は森のようになっていました。その後、公園として整備されたので、こんな美しい?姿になりました。

さて、今回訪問の目的地「中尾山古墳」です。駐車場からは、高松塚古墳より手前にあります。
(中尾山古墳)
写真からだとわかりませんが、八角形の古墳なのです。八角形でピンと来た人は、よほどの古墳通です。八角墳は7世紀中葉になると、大王墓のみが営まれるようになりました。ということは、この古墳は天皇陵?
 (別角度から)
そうなんです。「中尾山古墳」こそが、真の文武陵だと考える研究者が多いのです。文武天皇は、天武天皇の孫で、25歳の若さで崩御し、火葬にふされたと記録に残っています。
古墳の話をするたびに書いてきましたが、ここにも天皇陵古墳の問題点がありました。

それでは、現在文武天皇陵と治定されている古墳には誰が眠っているのでしょう?
(高松塚から現文武陵を望む)

今回、訪れた国営飛鳥歴史公園(高松塚周辺地区)は、これからの季節にゆっくりと散策するのにぴったりの所だと思います。電車では近鉄飛鳥駅(貸し自転車もあります)からも近いし、車で行っても無料駐車場もあります。高松塚の他に、キトラ古墳も近くにありますよ。秋の1日、古代のロマンにふれながら、ぶらりするのはいかがでしょうか。

本薬師寺跡のホテイアオイ

2015-08-27 18:17:30 | 花めぐり
本薬師寺跡(もとやくしじあと)は、藤原京にあった薬師寺跡です。だから、今は礎石が残っているだけです。藤原京のことは以前、「古代史の舞台を歩く」で書きましたが、このお寺は、後の持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立した寺だそうです。

この本薬師寺跡にホテイアオイが咲いていると、昨日のNHKニュースで放送していたので、早速出かけました。
思っていた以上に広い場所に、たくさんのホテイアオイが咲いていました。(人もたくさん押し寄せていましたが…)












ここのホテイアオイは、休耕田を利用し、地元の農家が20年前から植え始めたそうです。蓮池もありましたよ。
後半はカメラを替えて撮影しました。












あんまり変わりませんね。やっぱり腕を上げることが大切ですね。


お堂に、我が司馬遼太郎の文章が貼ってありました。『司馬遼太郎が考えたこと3 無題「我が憩いの場所」蘭 「前略 きょう、田の中にある元薬師寺の礎石の群れをさがしあてた。礎石のむこうは葦牙(あしかび)のにおいたつような万葉ふうの野、といいたいが、そこまでは注文どおりにはいかない。畝傍の裏のただの麦畑である。(昭和41年6月)』
(礎石の群れのひとつ)
(畝傍の裏のホテイアオイ)




青春18で 明石をぶらり

2015-08-25 16:50:05 | 鉄道の旅
大阪から明石へは、新快速なら38分です。(運賃は、920円です。)
大阪から「青春18きっぷ」で行く距離ではありませんが、プラス姫路ということで、出発しました。

明石は、「子午線の通るまち」として有名ですが、正確には「日本標準時の基準となる東経135度子午線上のまち」となるそうです。確かに、12時きっかりに、太陽は真南にありましたよ。


さて、今回の明石訪問の第1目的は、お寿司を食べることでした。それも「大阪駅から行く青春18きっぷの旅」という雑誌に載っていた、「菊水ずし」さんで食べることでした。しかし、なんとお休みではありませんか!


気を取り直して、明石の名所「魚の棚(うおんたな)」へ。結局、明石名物「玉子焼き」(明石焼き)をいただきました。お財布は助かりましたが…。
 (魚の棚商店街)

 (玉子焼き とり居)

 (箸を使って器用に焼いていきます)

(15コ550円)

少しだけ、魚の棚をぶらりです。さすがに明石です。明石ダコや焼き穴子など、明石の海の幸がいっぱいでした。




じつは明石には、まだ明石海峡大橋が出来ていない頃によく来ていました。ここからフェリーに乗って、淡路島に釣りに行っていました。
阪神淡路大震災の前日にも淡路島で釣りをして、震災の8時間前に、阪神高速神戸線で帰った思い出があります。その時は、まったく魚が釣れなくて、「なんか変やな」と、同行者と話していました。
明石海峡大橋が出来てからは、フェリー(タコフェリーでがんばってましたが)もなくなり、訪れることもなくなりましたが、また、お寿司のリベンジを果たしたいと思います。

もう少し旅を続けましょう。明石から姫路へは、24分の旅です。
姫路駅に着いて、電光掲示板を見ていると、姫新線の列車が出るところだったので、とりあえず乗り込みました。このへんが青春18きっぷの気楽なところです。この列車は、余部(よべ)行きで、たった二駅だけの列車でした。
 (余部行き普通列車)

 (姫新線のマーク?)

 (余部駅です)

すぐに姫路行きの列車がやって来たので、それで姫路に折り返しました。1両編成の列車で、ずいぶん遠くからやって来た感じがしました。こんな列車にゆられて旅がしたいですね。


姫路に戻れば、お約束の姫路城の写真です。駅から真っ正面にその勇姿を望むことができます。それにしても白いですね。


(今回の交通費:大阪~余部往復3320円のところ、青春18きっぷなので2370円)