はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

中山道を歩く (番場から柏原)

2015-04-30 19:15:59 | 街道歩き
今回の番場~醒井~柏原にかけては、「壬申の乱」の近江決戦開始の舞台となったところで、歴史好きの私としては、楽しみにしていた区間でもあります。
その前に「壬申の乱」のことを少し勉強しておきましょう。壬申の乱は、672年に、天智天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の長子の大友皇子とが、王位継承をめぐって争った戦乱です。結果は、大海人皇子が勝利し、天武天皇となって天皇中心の中央集権国家を建設したということです。「壬申の乱」については、720年に成立した「日本書紀」に書かれています。(巻第28:いわゆる壬申紀。ただし、天武の側に立って書かれたものなので…。)

写真のあたりが、息長横河(おきながのよこかわ)の戦いのあった場所といわれているところです。(これも諸説あるようです)いずれにしろこのあたりで、両軍が激突したのでしょう。耳をすませば、鬨の声が聞こえてくるような気分です。

やがて、醒井宿(さめがい)です。醒ヶ井といえば「名水の里」として有名で、中でも地蔵川の「梅花藻(バイカモ)」を見るために、たくさんの人が訪れるそうです。残念ながら、ちょっと時期が早かったようで、花は見られませんでした。中山道に沿って川も流れていますので、ここだけは何人かの人も歩いていました。

名水にちなんで、「西行水・泡子塚」という場所がありました。休憩が出来るようにベンチもあったので、ここでコンビニで買っておいた、おにぎりを食べました。(街道歩きでは、食堂が無いことが多いので、おにぎり等の非常食を持っておくことが大切です。)

西行水・泡子塚については「西行さんが飲み残した茶の泡を飲んだ娘が男子を出産、西行が念じると泡となった」等が案内板に書かれていました。西行さんにそんな念力あったんでしょうか?街道を歩いていると、そんなおもしろい話によく出会います。バイカモは見られませんでしたが、こんな綺麗な花が咲いていました。(ベニバナトキワマンサク?)


のどかな街道風景を歩いていきます。このあたりは旧梓河内村(あんさかわち)で、ここが「息長横河」とする説もあります。また、古代東山道の宿駅跡とも推定されています。

しばらく行くと、また地道が現れました。なかなか雰囲気がある道でした。この道を古代の軍勢、関ヶ原の落ち武者、大名行列、皇女和宮、そして多くの庶民が歩いたのかと思うと、時代を飛び越えて歴史の中に自分が入り込んでいきそうになるのを感じました。まさに街道歩きのロマンですよ。


いよいよ今回の目的地、柏原宿(かしわばら)です。ここにも古い家並みが、下の写真は、「伊吹堂亀屋左京店」創業寛文元年(1661年)の伊吹もぐさの店です。伊吹山は古くから薬草で有名でした。百人一首の藤原実方朝臣のうたに「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな もゆる思ひを」というのもありますね。

鳥居本から15キロ、足も痛くなってきました。このもぐさでお灸でもしてもらいたかったのですが、電車の時間が…。
ということで、今回の旅は終わりです。どうですか、中山道を歩きたくなってきたのではありませんか?次回は、歴史のターニングポイント関ヶ原です。5月の末から6月で考えています。よかったらご一緒しませんか。

おまけ!鉄ちゃんが見た風景です。東海道線を走る、「特急しらさぎ」です。中山道なのに東海道線です。

中山道を歩く (鳥居本から番場)

2015-04-29 09:00:49 | 街道歩き
街道歩きのおもしろいところは、歴史に、文化に、そして、人に出会えることです。かって、芭蕉さんも歩いた道です。そこで、私も旅人の一人となって、京から江戸へと続く街道を歩きたいと思ったわけです。我が芭蕉さんの「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思ひやまず…」みたいなところでしょうか。(ちょっと言い過ぎですかね。)

さて、中山道の旅は、去年の10月からはじめています。京の三条を旅立ち、6回に分けて、彦根市の鳥居本までやって来ました。これまでの旅については、またゆっくり書いていこうと思います。
ということで、今回は最新の旅日記です。

それでは、鳥居本(とりいもと)から旅をはじめましょう。旅したのは、4月26日です。初夏を感じさせるすばらしい天候でした。鳥居本宿は、京から七つ目の宿場です。大津宿を除いて、多くの宿場では街道に沿って、昔ながらの家並みが残っていますが、鳥居本もそんな宿場です。

(合羽屋。鳥居本の合羽(かっぱ)は、旅人の間では有名だったようです。)
合羽屋の奥さんが、昔のことを教えてくれました。何代目と言ったかな?

(昔の面影を残す街道です。道の突き当たりで右に大きく曲がっています。)
向こうから大名行列がやって来てもおかしくない雰囲気です。(電柱と舗装でなければの話ですが。)

(突き当たりの所からみた、枡形です。いい感じに曲がっています。)
枡形というのは、宿場の入口にある、曲がり角のある道です。敵の侵入を防ぐ目的で、街道整備時に作られました。車社会では邪魔な存在なので、消えていくところが多いようです。

宿場を抜けて、しばらく行くと矢倉川に架かる橋があります。現在は国道8号線となっている橋を渡りますが、当時は少し横に木製の橋があったそうです。そして、橋を渡ったところが、中山道と北国街道との分かれ道になっていました。そこにいた親切なおじさんが、橋のことや街道のことを教えてくれました。

(橋のたもとにあった道標。向こうにある石は当時の橋の遺物。)

おじさんに教えてもらった通りに行くと、中山道を歩きはじめて以来、初の地道になりました。ここからが、摺針峠(すりはりとうげ)です。

(昔の街道はこんな地道だったんでしょう。)

つづらおりの坂道を登りきると、望湖堂跡に着きます。その名の通り、振り返れば琵琶湖が見えました。これまで、大津から歩いてきたのですが、琵琶湖が見えたのは初めてです。(というかここが見納めなんですが。)

摺針峠には当時大きな茶屋があったそうで、多くの旅人や皇女和宮さんも景色を眺めながら、名物の「するはり餅」を食べたことでしょう。

街道は、やがて名神高速道路に沿って進み、番場(ばんば)宿に入ります。
名神高速とは、しばらく並行して進むことになります。もちろん名神高速が後に出来たのですが、中山道の経路が合理的に作られたということなんでしょう。
番場あたりの風景は実にのどかです。遠くに伊吹山がずっしりと腰を据え、周りの山々は新緑が輝き、田圃では田おこしがはじまっていました。

こんな風景の中を歩けるのが、街道歩きの楽しみのひとつでもあります。昔の旅人には、そんな余裕が無かったかもしれませんが。

今回はここまでです。この日は柏原(かしわばら)まで歩いたのですが、話が長くなってしまったようです。次回は、名水の里として有名な醒井から柏原宿です。

さいごになりましたが、3月に愛知川から鳥居本まで歩いた時から、先輩で大の親友でもある音楽家のベートーベン先生と歩いています。それまでは、一人で歩いていたのですが、一緒に歩く仲間がいるということは、とても楽しいものです。喜びや楽しみが共有でき、街道歩きも幅が広がった感じがします。

(近江鉄道鳥居本駅でのベートーベン先生です。)
※ベートーベン先生のブログは「平島勉ハッピートーク」で読めます。私のブログの師匠です。ウイットに富んだお話が聞けますよ。

「ナマステ」 ネパールの人々に合掌

2015-04-28 07:58:18 | 日記
「ナマステ」は、ネパールのあいさつです。「おはよう」、「こんにちは」、「さようなら」、「ありがとう」など、すべてのあいさつは「ナマステ」でした。
そのネパールで大きな地震があり、多くの方々が亡くなられたようです。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。

海外旅行はあまり行ったことがないのですが、ネパールには1987年に行きました。かれこれ30年前になります。
山好きなので、ヒマラヤを眺めるのを目的に、「地球の歩き方」を片手に、カトマンズとポカラを旅しました。ポカラでは、1泊20ドルの、現地では高級ホテル?に6泊して、毎日ヒマラヤを眺めていました。
ネパールの人たちは、みんなやさしかった印象が残っています。ヒンズー教徒がほとんどだったような気がします。子どもたちも素直で、「ジャパニーズ」と近寄ってきました。風景といい、人情といい、「昔の日本って、こうだったのかな。」と、その時思ったものです。

その後、政治的な混乱等があったようですが、最近は落ち着いている様子だったのに、今回の地震でどうなるのだろうという思いです。できるだけ早く復興して、また人々のやさしいまなざしがもどってくることを願っています。「ナマステ」

(サランコットの丘から眺めた、アンナプルナとマチャプチャレ 1987)

奈良の「光と影」を写してきました

2015-04-25 19:56:16 | 寺社めぐり
今日は、第2回目の写真教室で奈良に行って来ました

先生は前回と同じK先生、生徒はMさんと私の二人です。先生、生徒といっても古くからの知り合いなので、たのしく勉強することができました
今回の写真のテーマは、「光と影」です
今日は、夏を感じさせる陽気で、テーマにはもってこいの天候でした
それでは、芸術作品?をご鑑賞ください

奈良公園の光と影。明るいところに露出を合わせて…。

ひらひらする五色幕。シャッタースピードに気をつけて。

木漏れ日は、絞りをいっぱいに絞って…。

東大寺です。燭台と参拝者。絞りを開いて、遠くをぼかします。

いよいよ仏像に挑戦です。「広目天立像」は大仏殿を護っています。

同じ仏像ですが、すこしアンダー気味に撮影しました。

二月堂です。シャッタースピードをかえて、流れる水を写しました。

光と影が難しかったです。なかなか思ったようにはいきません。

途中の茶屋にあった風景から2枚。光と影です。

日傘に映った木々です。


ほとんどの写真は、先生が撮ったところを真似て撮りました。被写体を見つけるのも難しいですね。まだまだ修行は続くといったところです。

大阪の凸凹地形をぶらり その3(天王寺七坂)

2015-04-23 22:17:26 | 大阪の凸凹をぶらり
大阪は明治のはじめまで「大坂:おおざか」と呼ばれていました。(もっと昔は、難波です。)やはり、坂が多いところからきたのでしょうか?「坂」が「阪」に変わった理由は、諸説あるので省きます。
ということで、今回は天王寺七坂と呼ばれる坂をぶらりです。
この七坂も、前回の空堀商店街と同じで、上町台地を松屋町筋から谷町筋に向かって上る傾斜地なのです。
また、松屋町筋に沿っての地名は、下寺町というのですが、まさにお寺が並んでいるところです。

七坂の一番北側にあるのが、千日前通りから生国魂神社に向かう、「真言坂」(しんごんざか)です。


松屋町筋に戻って、少し南に行ったところに源聖寺のところにあるのが、「源聖寺坂」(げんじょうじざか)です。


さらに南に行くと、「口縄坂」(くちなわざか)があります。口縄とはヘビを意味する古語で、坂道の起伏がヘビに似ていたことから付いたとか?




次が、「愛染坂」(あいぜんざか)です。坂の上に愛染堂があります。愛染かつらの木があり、あの有名な「花も嵐も…」のモデルになったとか。


その南にあるのが、「清水坂」(きよみずざか)です。ちょっと疲れてきましたね。


次に、「天神坂」(てんじんざか)です。もう少しです。


そして、最後は「逢坂」(おうさか)です。


この坂の途中に、安居神社(やすいじんじゃ)があります。ここも来年は有名になる予定です。なぜなら真田幸村さんが討ち死にした所だからです。前回の真田丸もそうですが、幸村さんは大坂の凸凹地形をうまく利用したんですね。


この逢坂を上りきったところが、四天王寺さんです。四天王寺も創建当時はすぐ西側が海だったそうです。松屋町筋あたりが海岸線?今でも彼岸には、西門から夕日が見られる名所です。(これも上町台地効果ですね。)
ところで、坂は七つありましたでしょうか。お疲れ様でした。