太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

馬には乗ってみよ人には添うてみよ

2018-04-23 09:12:19 | 仕事に関すること

ことわざである。自分自身の欠点の一つである。昔から先入観で物を、人を見て来た性格は否めない。一方、この先入観は結構当たることが多く、やっぱりそうだったかと思う事の方が多かった。周りからは観察眼が飛び抜けて素晴らしいと言われたこともある。しかし人に対してはとんでも無い誤解をしていた経験がある。ちょっとした言動や伝聞、あるいは外観の生理的な印象から他人を色眼鏡で見ていた。掲題ではないが食わず嫌いのところがあった。

ある正月休みの間に当時事業本部長から本社に来てくれと呼びだしがあった。当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった事業部長の不祥事である。暴露本から露見したとんでもない事件である。簡単に言うと補助金の不正受給で近く行政処分も下されると言う。噂は飛び交っていたがどちらかと言うと嫌いなタイプの事業部長だったのであまり近づくことはしていなかった。専務から詳細を聞かされると、なるほどアイツならやり兼ねないと思った。呼び出された用件はその事業部長のクビは免れない、ところが彼が中央省庁や業界との付き合い一切やっていたが自分にはその経験がないから助けて欲しいという。多分事業部内で似たような仕事をしていたのは他に居なかったのだろう。緊急事態の事情は理解できたので承諾して休み明けには本社に単身赴任することになった。最初は事業企画部という部署を新設しそこに治まった。後に本部室とか名称は変わったが結局3年間本社勤務は続いた。渉外とか官庁でいうと官房のような部署の新設である。

既に相当歳はいっていたが、この3年間は貴重な経験をする場となった。まず最初に部下となったのは問題を起こした事業部長の下で右上となって働いていた連中である。どの部署に持って行く訳にも行かず、取り敢えず面倒を見てくれという。最初の内は互いに警戒してよそよそしい関係であった。ところが時間が経つうちに、(事業部長から)聞いていた(私に関する)話と随分違う、自分達はどの部署からも敬遠されていることは分かっていたが一切そのようなことがなく公平・中立な人と分かったと言われるようになった。確かに最初は色眼鏡で彼らを見ていた。しかし、そのうちに彼らが素晴らしい才能の持ち主であることが分かってきた。単なるゴマすりやお小姓ではなく技術面や営業面における才能が事業部長を支えていたのだと分かった。この才能を生かすことが自分の役割だと思った。そのうち営業畑で問題児と言われていた男が入って来た。営業をクビになったと言っても良い。顛末を聞いて見ると正直者の人生そのものである。愚直ともいうべき不器用な彼のやり方は営業では通じなかったのだろう。思い切って渉外担当として業界団体やら官庁との付き合いを任せてみた。これが外部からすこぶる評判が良く、政治家からも信頼され議員会館にもアポ無しで行って秘書と雑談をしてくるまでになった。

最後の部下は別の事業部から異動してきた営業マンである。営業という任務はない部署だったので何を担当させるかは迷った。過去のことは聞かずに取り敢えず開発営業のような仕事をやらせてみた。営業より先に客先を開拓する仕事である。これがまた素晴らしい実績を残して行った。東京都庁に最初に太陽電池の営業を仕掛けたのは彼であり多くの成果を出した。全国の浄水場を回って太陽電池を最初に案件化したのも彼であり、道路公団とか空港への設置を最初にやったのも彼である。何れの部下もそれぞれの部署で何がしかの事を行い結果として集まった連中だからひと癖ふた癖はあり歳格好は似たような者達であった。しかし共通していたのは太陽電池が大好きで、物怖じしない性格で労をいとわない。若い女子社員を除けば殆どは歳hが行った部下達であった。今思っても一つの会社ができるくらい良くあれだけ才能が集まっていたものだと思う。3年が終わった後に彼らが再配属されてからの活躍がそれを証明している。初めは吹き溜まりとか更生施設と呼ばれていた部署は再処理工場とかチーム××とか呼ばれるようになった。

その最後の部下だった男がこの3月に定年を迎えた。問題を起こした事業部長の本当に右腕だった男、今では互いを認める関係になっているが、声を掛けて送別会を開くことになった。ひと癖ふた癖あった連中が再び集まる。皆同じ様に年を取っているが懐かしい。人には添うてみよを教えられた貴重な仲間達である。



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