「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

1998年6月6日「カズ無念の帰国」番組をあらためて見る

2014年12月29日 20時02分00秒 | テレビ番組
私が、長い年月、収録・収蔵を続けてきたサッカー情報のうち、試合映像・番組映像をビデオテープからパソコンを通じてHDDに取り込む作業を続けていることは、このブログでもたびたびご報告しているが、現在、その取り込み作業は1998年分を行なっている。

1998年はフランスW杯の年、日本が初めてワールドカップの舞台に立った年であり、4年後には日韓共催大会を控えた年ということで、マスコミの取り上げ方は、それこそ洪水のような量だ。

この年のビデオテープはなぜか、どれもこれもカビ発生だらけで1本1本修復しながらなので、なかなか取り込みが進まない。

そんな中、1998年6月6日にフジテレビ「土曜一番!花やしき」という番組が放送され「緊急特集!カズ無念の帰国」という映像の取り込み作業を行なった。そして、あらためて28分の番組を見た。

フランスから戻ったカズ選手と北澤豪選手の会見、カズ選手のここまでの軌跡、そしてコメンテーターによるカズ選手外しの是非論などが番組の内容だ。

16年前の衝撃的な出来事を報じた番組を見て、あらためて二つのことを思った。

一つは、カズ選手が、記者たちからの、いわば「悔しくはないのか」「怒りをぶつけたくはないのか」的な質問攻めに対して、終始一貫、泣き言一つ言わず「選手選びは監督の決めることでありそれについて自分が言うことはない」「ワールドカップへの夢はあきらめたわけではないし、これからもそれに向かってチャレンジしていく」と応じ、そして、あの名言である「魂は向こうにおいてきた」と語っているのである。

今にして思えば、彼は「今回がダメでも4年後がある」と気持ちを切り替えていたから、そう応じていたのではないたろうか。

なぜなら、いまなお現役のカズ選手、並みの選手なら「今回がラストチャンスだった。次回はもう代表に選ばれて日韓ワールドカップの舞台に立てるレベルにはないだろう」と考えそうなものだが、カズ選手にはそんな発想が露ほどもなかったのかも知れない。現役を続けている今のカズ選手を見ると、その時、決して強がりでもなんでもなく、ごく自然に「次をめざす」と切り替えたのではないかと思えてならない。

それにしても、こんなに潔い会見が出来る選手は滅多にいないと思う。カズ選手の「キング・カズ」たる所以を再認識した番組映像だ。

もう一つ、岡田監督のカズ外しの本質をどう捉えればいいのか?という点だ。番組でのジャーナリスト・二宮清純さんの発言が正鵠を射ていたように思う。

番組では、いろいろ人からいろいろな意見が出ていたが、二宮さんは「要するに誰を残して誰を外すか、それは監督の専権事項であり、周りが何を騒いでも始まらない、しかし、外し方の良しあしは問題にされる。外された3人のうちの市川大祐選手、彼が同じように外されても何も問題にはされない。しかし、カズは日本サッカーをこれまで牽引してきた功労者だ。それを外すには外し方というものがある。」と指摘した。

問題の核心は、岡田監督には監督の経験が全くないまま代表監督になってしまった人だから、重要な選手を外すということについても、当然全く経験がない、いわば無知、もっと言えば外し方について無能な監督だというところにあるというのが二宮さんの指摘なのだ。

経験があり、さらには有能な監督であればあるほど、礼を尽くす外し方に最大限配慮する、というわけだ。
納得のいく指摘である。

あれから16年、岡田監督は、この時の「カズ外し」について「外し方が未熟でカズに申し訳ないことをした」と総括しているだろうか?

実は、このカズ外しをした時、岡田監督がフランスで屋外での立ったまま行なった会見で「3人とも、そのままフランスに残すつもりだったが、カズ、北澤については私の見通しが甘かったようで、思った以上に動揺が激しく、チームに与える影響も考えて日本に戻すことにした」と説明した。

外し方を間違ったために、火に油を注ぐ結果を招いたということになる。
二宮氏は「見通しが甘かった」などということ自体が、監督として無能なのだと痛烈に批判していたが、外したことがいいのか悪いのかという問題ではなく、まともな監督ならば「外し方」を間違ったりしないのだということがポイントだったようだ。

私は、その後の資料を詳しく点検していないので、いまは評価できないが、岡田監督がこの時の「カズ外し」について「外し方が未熟でカズに申し訳ないことをした」と総括しているのであれば、すべて終わったことと思いたい。
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スポーツ文化ネットワーク「サロン2002」のこと

2014年12月29日 17時11分27秒 | サッカー文化
昨夜、12月28日、スポーツ文化ネットワーク「サロン2002」の忘年会に参加した。この「サロン2002」というのは、最近、NPO法人化された「サロン2002」が運営している交流の場で、NPO法人の正式メンバーでなくても年会費3000円を払うと参加できるネットワークだ。

私が、このネットワークに入会させてもらったのは、夏に神戸を訪ねた時、神戸市立中央図書館に開設された「神戸賀川サッカー文庫」で、レジェンドジャーナリストの賀川浩さんにお目にかかる機会をいただいたのがキッカケだ。

前回の書き込みでも賀川浩さんのことを紹介したが、夏のその翌週、東京で講演されるとお聞きして、それが「サロン2002」の主催ということを知り、会員にしていただいたのだ。

だいたい毎月末、日曜日夕刻あたりに月例会を開催しておられるようで約1年前からは、JR総武線「錦糸町」駅南口からほど近いところにある「フットボールサロン4-4-2」というサッカーパブが会場となっているとのこと。

私は、賀川浩さんの講演会の時と9月末に行なわれた月例会、ジャーナリストの宇都宮徹壱さんの講演会の2回しか参加していないが、この「サロン」は1997年から活動を続けている。お二方とも、このサロンのメンバーとのこと。

これまで毎年1回のシンポジウムとその報告書公開、そして月例会は200回以上に達している。詳しくは、タイトルにある名称でネット検索していただければホームページにアクセスできる。

このネットワークが2014年版会員名簿を作成してくださり、先日郵便で送ってくださった。ありがたいことだ。私のように、なんの人脈もない人間にとっては、自分の活動について発信できる場は限られており、これまで、このブログで発信してきたのが関の山だった。

そんな中での忘年会だ。忘年会も例会の一環ということで、今回は「お宝映像を見る会」、1972年の欧州選手権決勝西ドイツvsソ連戦というお宝映像だ。西ドイツが1974年ワールドカップでクライフ率いるオランダを破って優勝したことは名勝負だったこともあり、よく知られているが、映像を提供されたサロン会長の中塚さんが「その2年前、この大会の優勝によってベッケンバウワーのリベロスタイルが確立された意義深い試合」と解説してくださった。

この試合、西ドイツが3-0で圧勝、なにぶん忘年会でいろいろと話に花を咲かせながらの観戦なので、ディテールまでは感想を書けないが、インパクトが強かった場面が、試合終了数分前の出来事だ。

会場は、ベルギーのヘイゼルスタジアム。1985年に「ヘイゼルの悲劇」が発生したスタジアムだ。映像を見ていると、試合の終わりが近づいた頃、西ドイツの優勝を確信したサポーターであろう、大勢の人たちが、まだ試合中だというのに観客席からピッチに向かって走り出したのだ。

ここまではよく南米でも見られる光景で珍しくないが、一旦大勢の警備員が出て、観客たちをピッチの外に押し戻したが、観客席までは戻らず、長方形のピッチを取り囲む形で観戦したまま試合が続行されていた。これには驚いた。まるで運動公園で少年サッカーの試合を応援する親御さんたちのような絵だった。

そして試合終了のホイッスル、もう選手がロッカールームに戻るより観客が選手をもみくちゃにするほうが早いのは当然だ。この当時は、警備関係者が観客席に戻すまで試合を一旦止めるなどということはしなかったのだ。

それにしても1972年の段階で、欧州では素晴らしいピッチでスペクタクルな試合が展開されていたのだ。つくづく歴史の分厚さを感じずにはいられない。

この忘年会、会長さんのはからいで、各自、自己紹介する機会をくださった。
私はほとんど知られていない存在なので、いま進めているサッカー情報のアーカイブ化、特に映像のHDD化の作業のことをお話しした。ビデオテープが膨大なこと、それを来る日も来る日もHDDに取り込んでいることなどについて、約20人ほどの参加メンバーの方々は驚いてくださった。

会の終わり際に、会長さんから「もう後継者は見つかりましたか?」と聞かれたので「あと10年ぐらいの間に、どなたか手をあげてくださればと思って続けます」とお答えして店を後にした。
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