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「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

チーム応援番組にみるクラブのチカラ・G大阪編

2015年01月25日 21時32分51秒 | Jリーグ・三大タイトル
いま、サッカー文化フォーラムの、20数年におよぶサッカー情報の蓄積をひもとき、日本サッカーの進化・発展の姿を浮き彫りにしていこうと、具体的な作業を始めている。

それは、いろいろなテーマを設定して、それについて掘り下げ、テキスト、動画、静止画を織り交ぜて10分なり20分のレポートにして、ウェブサイトである「ようこそサッカーの世界へ」にアップしていく方法を考えている。

最初に取り上げる予定は、ウェブサイトのトップページにもある「伝説」をキーワードにした掘り下げだ。「伝説のあの年」「伝説のあの試合」「伝説のあのチーム」「伝説となったあの選手・指導者たち」の各シリーズのうち「伝説のあの年から始めることにしている。

そして、その①は「1986年」を掘り下げる。

その前に、他に予定しているテーマを一つふたつ紹介したい。

まず「チーム応援番組にみるクラブのチカラ」というテーマを予定している。チーム応援番組というのは、Jリーグがスタートしてから各チームが放送を始めた応援番組のことだ。

1993年には、すでに横浜マリノスの番組「キックオフ・マリノス」が日本リーグ時代の「日産FCサッカーアワー」という番組を引き継いで放送されていたのをはじめ、1998年頃には関東地区だけで、UHF局を中心に8チームの番組が放送されていた。

当時から放送時間はまちまちで「GOGOレッズ」のように毎週30分を費やしていたチームもあれば、始まってまもなかった川崎フロンターレの番組は月1回15分という具合だ。

当時は、各チームのホームタウン地域のテレビ局が地域限定で放送していたので、全国的に人気の高かったジュビロ磐田や横浜マリノスの番組は、多くの方から何とか見たいという要望を受けていた。

ずいぶん前置きが長くなったが、今日、たまたまスカパーで「ガンバファミリー」という30分のチーム応援番組を昨年8月分から12月分まで5回まとめて放送してくれた。

Jリーグのシーズン中だと月1回の放送だから、断片的に見る感じになるが、今回は5回分連続放送なので、ちょうどブラジルワールドカップによる中断明け後のガンバの快進撃を追える形になっていて、見ごたえがあった。

しかし、私は、ガンバ三冠への足どりより、チームとしてどういう番組づくりをしているのかを注目して見ていた。というのも1998~2000年頃にも稲本潤一選手や播戸竜二選手などの人気選手の様子が知りたいと、関西地区で放送されていた応援番組を入手していたことがあるからだ。

当時の番組は、まさに関西のノリそのもので、お笑い番組かと間違うぐらいの軽妙さだったが、今回見たスカパーの番組はまるで違っていた。それは、面白く楽しければいいというサポーターやファンにすれば、物足りないぐらい、しっかりした番組になっていた。

もちろんシーズン中の放送なのでゲームレビュー中心の番組ではあるが、何回かの連続企画で、岩下敬輔選手を司会役にして3~4人の選手が、クラブが考えていかなければならないことをフリップにして示し、各自がそれに対する考えを発表するといった趣きのコーナーがあることを知った。

「ガンバスピリット」というコーナーのようで、毎回の放送でフリップ1枚、たとえば昨年9月放送分のフリップには「ガンバ大阪を支えるパートナーについて」というテーマが示されていた。この日は、岩下選手、阿部浩之選手、今野泰幸選手そして、名前はわからないが若手のもう一人だった。わずか5分ぐらいのコーナーだが、選手がキチンとした考えを話さなければならない場であるという点で、ガンバ大阪のクラブとしての考え方がかなり感じ取れるコーナーだと思う。

まさに「ガンバスピリット」とは何なんだということを、しっかりと選手に考えさせ浸透させる意図そのものだ。以前、似たような番組作りだと感じたクラブが一つあった。それは鹿島アントラーズの番組「フォルサ・アントラーズ」だ。1997年頃からCS放送で始まった番組で、その後数年で終了したように思うが、同じ時期の他チームの応援番組とは、かなり異質の番組作りだと思ったが、その後の鹿島アントラーズの軌跡を辿れば、まさに「鹿島スピリット」を涵養していくんだという意図を持った番組作りだったと思う。

今回のガンバ大阪の番組にしても、かつての鹿島アントラーズの番組にしても、楽しく見せて欲しいというサポーター・ファンには物足りなく映るに違いない。クラブがどういう考え方で番組を作るかは、それぞれ違っていていいと思う。かつてのジュビロ磐田の番組「フォルツァ・ジュビロ」は、強いのに番組も楽しいといった時期が続いた。欲を言えばそういう番組がいいのかも知れない。

しかし、時が流れても選手が変わっても脈々と受け継がれるクラブのスピリット・魂といった部分を決して失わないのだという考え方が、その時々の選手たちに浸透しているチームが真のビッグクラブに成長していけるのではないだろうか。

余談になるが、今日はもう一つガンバ大阪の試合を見た。それは1998年クラブユース選手権決勝、ガンバ大阪ユースvsジェフ市原ユースという試合だ。
この試合には、ガンバ大阪に二川孝広選手、大黒将志選手が、ジェフ市原には阿部勇樹選手、佐藤寿人・勇人選手が出ていた。決勝に進むチームらしく、後に長く活躍する選手たちのユース時代の試合である。

この試合、大黒将志選手の活躍などでガンバ大阪が優勝したが、驚いたのは、さきにあげた選手たちのその後である。二川選手はいまなおガンバ一筋。大黒選手は海外に出たこともあり帰国後は別なチームに移っているが、驚きはジェフ市原だ。いまも活躍している阿部勇樹選手、佐藤寿人選手をチーム一筋にしておけなかったということになる。

ジェフ市原、現在のジェフ千葉、いわゆるオリジナル10のチーム(Jリーグスタート時の10チーム)である。しかし、ここしばらくJ2からJ1に戻れなくて苦しんでいる。一年でしっかりとJ1に戻ったガンバ大阪にチーム一筋の二川選手がいて、そして国内最多の16冠を獲得して最強クラブに君臨する鹿島アントラーズには同じくチーム一筋でユニフォームを脱ぎますといって引退した中田浩二選手がいた。

ジェフ市原・千葉と、それらのチームとの差はなんだろうか、10年先、20年先を見据えた、ゆるぎないチームスピリットを持っているか否か、といったら間違いだろうか。

こうした「クラブのチカラ」といった点について、ぜひ、多くの皆さんのご意見をお聞きしたい。このプログへの意見投稿でもいいし、左側の欄のブックマークについているFacebookのリンクから入っていただいてコメントしていただいてもいいです。お待ちしています。

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ジーコつば吐き事件のルーツとなった試合を振り返ります

2015年01月15日 22時34分41秒 | Jリーグ・三大タイトル
「ジーコつば吐き事件」というのを覚えておられるでしょうか?

Jリーグがスタートした年、1993年、前期を制覇してJリーグ始めてのステージチャンピオンとなった鹿島、その中心がジーコでした。

後期はヴェルディ川崎が制し、年間王者を決するチャンピオンシップは、年が明けて1994年1月に行われました。

第1戦をヴェルディが制し第2戦、レフェリーの判定にフラストレーションをため続けていたジーコは、ヴェルディに与えられたPKでペナルティスポットに置かれたボールに、つばを吐きかける行為に出たのです。

あのジーコが、そのような行為に出たのです。ジーコはレッドカードを受けて退場処分を受けたのですが、つばを吐いたからレッドカードを受けたのではなく「PKを蹴ってよし、という主審の笛が鳴ってからペナルティーエリア内に入ったことに対して警告され、それが2回目の警告だったので、自動的に退場になったということのようです。

そして、つばを吐き、主審を侮辱する態度をとったことで、4試合の出場停止という処分をJリーグ規律委員会が下したのです。

ジーコは退場処分によって、事実上、チャンピオンシップは決したといっていいでしょう。

ジーコの行為に対して、激しい非難が浴びせられました。しかし、シーコが、そのPKの判定だけに不満でその行為に出たわけではないことを、多くのサッカーファンは知っていました。

1993年シーズン全体を通しても、ジーコは審判の判定に対してフラストレーションをためていました。その不満を「有名なチームに有利な笛を吹く審判が相手チームの味方では勝つことができない」などと公言もしていました。

実は、その不満は、すでにJリーグスタート前の1992年から溜まり始めていたのです。そのルーツとなった試合は、Jリーグとして初めてのタイトル戦となった1992年ナビスコカップ準決勝の対ヴェルディ川崎戦です。

1992年10月16日に行われたこの試合でもジーコは、イレブンを鼓舞しながら勝利への執念に溢れたプレーを見せていましたが、個々の選手の力量に勝るヴェルディ川崎が後半19分、ラモス、武田とわたったパスからカズが見事にゴールを決めて先制しました。

その直後、ジーコが奇策に出ます。ヴェルディの選手たちが先制点に歓喜している隙をついてジーコがキックオフして鹿島の選手がゴールを陥れたのです。

しかし、主審はゴールを認めませんでした。自分はキックオフの笛を吹いていないという訳です。ジーコは激しく抗議します。「なぜ、そんなにヴェルディの選手たちに時間を与えるのか、世界のサッカーの常識では、そんなに長く待っている必要はない」というわけです。



ジーコが「有名なチームに有利な笛を吹く審判が相手チームの味方では勝つことができない」などと公言するようになったのは、この試合がルーツといっていいし、有名なチームとは、特にヴェルディ川崎を指していると考えるのが自然です。

1993年前期は、そうした審判の判定に悩まされることなく優勝を果たした鹿島とジーコだったのですが、チャンピオンシップで、またしても審判の判定という悪夢の前に、とうとう怒りを爆発させてしまったのです。

その後、Jリーグの歴史は、鹿島とジーコ、そしてヴェルディ川崎に対して、いわゆる「歴史による審判」を下していきます。鹿島は現在、常勝軍団の名を欲しいままにして、Jリーグに君臨しており、ジーコも日本代表監督を務め、Jリーグ、日本サッカーの功労者として不動の評価を得ています。

一方のヴェルディ川崎は、チーム名に企業名を冠することができないことへの不満、ホームタウンの東京移転に際してのわがまま問題など、Jリーグの理念とは程遠い経営姿勢をとりながら、次第にチーム力を弱め、すっかりJ2が定位置のままとなってしまいました。

ヴェルディ川崎がJリーグ初代チャンピオンに就いた頃、20年後に、両チームがこれほどまでに対照的な軌跡を描くとは、誰が予想できたでしょうか?

また、あの1992年から1994年にかけて、ジーコから「有名なチームに有利な笛を吹く審判が相手チームの味方では勝つことができない」と言われるジャッジをした何人かの審判たちは、この歴史が下した審判をどのような気持ちで受け止めているのでしょうか? 機会があったらぜひ語って欲しいと密かに思っています。




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新年おめでとうございます

2015年01月03日 11時26分41秒 | Jリーグ・三大タイトル
新年おめでとうございます。
元日から書き込みたかったのですが、やはりビデオ映像のHDD取り込み作業という、もっとも優先順位の高い仕事を少しでも進めたいと、ブログ書き込みが後回しになり、ギリギリ三が日に間に合いました。

さて、毎年、新年の楽しみといえば、元旦の天皇杯決勝と、年をまたいで開催される全国高校サッカーですが、今年はその二つとも変化がありました。二つとも変わるということは、大きな節目の年といってもいいかも知れません。

どちらも国立競技場の改築によるもので、天皇杯決勝は横浜国際に(いまは日産スタジアムと呼ぶのが正しいのでしょうが)、高校サッカーの「夢の国立」と呼んでいた準決勝・決勝は埼玉スタジアムに変更されました。

天皇杯決勝に至っては、1月早々に開催されるアジアカップの日程との兼ね合いで、12月13日に終わってしまいました。

何事も終わりのないものはなく、変わらないままでいられるのは不可能に近いわけですから、こうした変化も受け入れなければならないということですね。

元日のテレビ番組を確認するまでは、サッカーの放送はなく、NHKの午後1時50分の恒例のフレーズ「NHKの新年最初のスポーツ中継は天皇杯決勝から始まります」も、もうおしまいと思っていたら、なんと皇后杯決勝を午後2時から放送してくれた。

会場の東京・調布市、味の素スタジアムのバックスタンド側に観客がほとんどなかったのは少し寂しかったが、それでもNHKの恒例のフレーズは天皇杯が皇后杯に置き換わっただけで途切れなかったことのほうが嬉しかった。

一足先に世界制覇を果たした女子サッカーにしてみれば、これまで天皇杯決勝の前座の位置づけだった皇后杯決勝が、全国中継される主役となれたことも、大きな節目と感じていると思います。

男子に比べれば、スピードや肉弾戦の激しさが一回り緩いのは当たり前としても、ボールさばきの華麗さや身のこなしの小気味よさは、素晴らしいものがあり、最後のセレモニーでベレーザイレブンが皇后杯を高々と掲げた瞬間に紙吹雪が吹きあがった演出を見て、やはり元日の午後はサッカー中継だな、と感じたものです。

高校サッカーのほうは「夢の国立」というフレーズが使えず、選手たちにとっては目標の喪失感が大きいのではないかと思っていたら、ちゃんと、その辺のことを考えて、日テレの今大会キャッチフレーズは「蹴都移転」、月刊ZOON誌の大会ガイドプック表紙には「君が立つ、そこが聖地」となっていた。これなら気持ちの切り替えがうまくできるのではないだろうか。

そして、高校サッカー決勝が終わる日の1月12日にはアジアカップ第1戦が始まる。いつもの年は、高校サッカーが終わると国内のサッカーシーンがオフ状態に入るが、今年は切れ目なくつながっていく。サッカーカレンダーをよく見ると、アジアカップが終わる2月はじめから2月下旬のACL開幕まで3週間ちょっとだけ隙き間がある程度で、その後はまたサッカーシーン目白押しだ。

もっとも、国内に隙き間がある期間にも、欧州各国リーグはシーズン後半の佳境に入り、話題には事欠かない。そんなことを思いながら、新年を過ごしています。

私は、当面の目標を、ビデオ映像のHDD取り込み作業を2002年まで終わらせることにしようと思っています。現在1998年分を作業中ですが、この年から日韓共催W杯の2002年までの5年間で、日本におけるサッカーの地位が飛躍的に高まったといえます。日本代表への期待、ワールドカップへの関心など現在の姿は、この5年間で醸成されたといってもいいと思います。

それだけに、その間の情報量もハンパではなく、とても半年やそこらで終わらせることはできないと思います。どれぐらいかかるのか見当がつきませんが、来年半ば、つまり2016年夏あたりまでにと漠然と考えています。

それでは、また作業を再開します。

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G大阪の三冠、雑感

2014年12月14日 14時02分16秒 | Jリーグ・三大タイトル
昨日、天皇杯決勝が行われG大阪が快勝、ナビスコ、Jリーグと合わせて三冠を達成した。
3年前の柏同様、J2から戻ったばかりでリーグを制したという点で、日本のプロリーグの特殊性がまた話題になるだろうが、なにせ三冠、偉業、快挙の賛辞がふさわしい。

これで、Jリーグスタート時の10チームとしての誇りにピリオドを打ち、J2への陥落を経験した屈辱の歴史が消えるわけではないが、ビッグクラブにして西の王者という称号は取り戻したように思う。

それにしても、G大阪に関しては3年前の西野監督退任以降話題に事欠かない。順不同だが思い当たるままに列挙してみたい。

①G大阪の2012年の混迷は一体なんだったのか、単なるバカな経営陣による脱線だったのか。いま一つわからない。
2013年にはJ2優勝で、あっさりとJ1に復帰、そして今年の三冠で、10年先、20年先には、ほとんど問題にされないと思うが、2012年の混迷は一体何だったのかと、つくづく思う。

クラブ社長が、カネを出している親会社から来ることは、日本の場合、これからも避けられないのかも知れないが、こんなバカな出来事が起きないよう各クラブは肝に銘じるべきだ。

②G大阪とC大阪は、大阪ダービーで「あのチームにだけは絶対負けられない」というほどライバル意識を高めているのか、いま一つわからない。

2013年にG大阪がJ2で戦っている間、C大阪は柿谷曜一朗のブレイクをはじめ、2012年ロンドン五輪ベスト4進出に貢献した山口蛍、扇原ら若手選手の活躍もあってJリーグの話題を一人占めした感があった。「セレ女」という言葉も生まれ、クラブ経営の模範とも言われた。

そのC大阪が、G大阪が戻ってきた今年、J2降格となってしまう。クラブ経営の模範と言われたチームが、実は親会社から来た経営者の無定見なチーム編成で、すっかり混迷してしまったという。

ともに大阪を本拠として、大阪ダービーを戦うはずのチームが、クラブ経営陣の問題で、まるですれ違うように、いいシーズンとダメなシーズンを繰り返している。これでは、とてもダービーが盛り上がるはずがない。

2015年秋にはG大阪の新スタジアムが完成するという。ということは2016年シーズン、C大阪もJ1に戻ってきて、ともにキャパの大きいスタジアムで、それぞれのホームの時、それぞれのチームカラーで埋め尽くされる熱狂のダービーが始まることを願わずにはいられない。

③宇佐美貴史の「いい眺めだなぁ」パフォーマンスは、世界中探しても記憶にない新しいパフォーマンスだと思うし、サポーターも一緒に同じポーズをとっている。これは、世界に発信できる彼の財産だと思うが、来年まで続けられるかどうかにかかっている。

彼の場合は、今年ブレイクしたFC東京・武藤嘉起と違って、数年前からその才能は折り紙つきだったので、むしろ昨年の柿谷曜一朗と同じく、花開くべくして開いた感がある。

宇佐美選手のシュートフォームを見ていると、あの、華奢な体つきで、よく強いシュートが打てるものだと感心する。従来にないストライカーと言えるし、ぜひ大成して欲しい。それこそ、釜本以来、絶えて久しい世界に通用するストライカー、釜本が初代監督を務めたG大阪から生まれるなら、なによりというものだ。

④J2から戻って即三冠、こういうチームがこれから先10年やそこらでまた出てくるとは思えない。相当珍しいケースと考えたほうがいいのではないか。だとすると、20年先、30年先のサッカー史研究者は、なぜ、このチームが三冠を成し遂げられたのか、前年J2で戦っていたことも因果関係となるのかなど、さまざまな視点から研究対象にするのではないかと思える。

できれば、未来の類似チームに対して戦略モデルを提示できればと思うし、今回の快挙に関心を寄せるとしたら、そこに核心があるのではないだろうか。

さきほど①の項目で「2012年の混迷は一体何だったのか10年先、20年先には、ほとんど問題にされないと思うが・・・・・」と書いたが、2014年三冠の快挙は20年先、30年先にも語り継がれるに違いない。

ところで、今朝のスポーツ紙を当然注目した。しかし「G大阪三冠」を一面トップで扱ってくれたのは「日刊スポーツ」1紙のみ。あとは競馬予想記事だ。スポーツ紙のスポーツジャーナリズムとは、所詮この程度なのか、サッカーの魅力が低下したからなのか、検証に値する。





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