捕らえられて、抜け出せない状態が続いている。直截に響いてきた。そんな詩群だ。
と、これだけで、いいのかもしれない。
だが、どうしても、こねくり回したくなってしまう。読みは、独断的と教科書的を往き来する。
なぜか。あたりまえ。そこにある詩が、捕らえて、抜けださせないほど、魅力的だからだ。
劉暁波。中国の民主化運動に深くかかわって、何度も投獄、自宅軟禁を繰り返す。現在、2008年の「08憲章」の中心人物として懲役11年の実刑判決を受け、服役中。2010年「ノーベル平和賞」を受賞。だが、中国政府がこれを認めず、授賞式は本人不在であった。この詩集の著者略歴から拾えば、このように紹介できるだろうか。
そして、彼は詩人なのだ。その彼の詩人としての初めての、まとまった詩集である。
何になることを夢想できるか。何になれると思うのか。その幅の広がりが自由の度合いのひとつだと考えられるのかもしれない。そして、それとは逆に、何ものかになりたいという願いの強度は不自由の尺度になるのかもしれない。何ものかへの欲求の強さは自由さと反比例する。そして、なれるものの偏狭さは不自由さと比例する。夢想の翼にはリアルの枠が存在するのだ。これが精神的な話にとどまらず、実際の身体的な不自由が、拘束が、加わった場合、さらに激しく緊張を強いる。さらに、何かになれることを夢想することさえ出来なくなる事態というものもあるわけで、そんな悲惨をボクらは何によって知り、何によって学ぶのだろう。
劉暁波詩集の第1部を読んだとき、「なる」への痛切な思いが胸を打つ。
詩集は5部構成になっている。その第1部「蟻が泣いている」から、どの1篇を引こうかずいぶん悩みながら、冒頭の詩「一通の手紙で十分だ」か詩集表題詩「牢屋の鼠」か。
で、「牢屋の鼠」。
一匹の小さな鼠が鉄格子の窓を這い
窓縁の上を行ったり来たりする
剥げ落ちた壁が彼を見つめる
血を吸って満腹になった蚊が彼を見つめる
空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい
今宵の鼠は紳士のようだ
食べず飲まず牙を研いだりもしない
キラキラ光る目をして
月光の下を散歩する
(「牢屋の鼠―霞へ」全篇)
ボクらは通常、「壁」を比喩として使う。例えば、陳腐だが「人生の壁」とか。
ところが、劉の詩は逆のベクトルを取る。「壁」は比喩ではなく、現実的な状況なのだ。むしろ読者がそこに自らの比喩を重ねる。では、単に現実を書いているだけか。それならば、同情しか呼び込まない。「壁」の中に比喩を呼び込んでいるのだ。
吉本隆明が田村隆一の詩について語っていた言葉がある。聞き語りを文にしているので切りにくいので長い引用になるが、田村隆一の詩「幻を見る人」の一部、「空は/われわれの時代の漂流物でいっぱいだ/一羽の小鳥でさえ/暗黒の巣にかえってゆくためには/われわれのにがい心を通らねばならない」を引いた後、
ここに示されているのは、我々の時代は、どんな豊かな自然を見て
も、いつも「にがい心」つまり、死の影を通してしか見ることができ
ない、小鳥たちの姿さえ、そのようにしか見られない、ということだ。
(略)
象徴詩人たちは、暗い気持ちを何かに託して表現してみせた。鳥が悲
しみの姿をしているとか、カラスが死を示しているとか。田村さんは違
う。自分の外にあるもの(鳥)と内側にあるもの(にがい心)を完全に
結び付けて表現する。それがしかも、詩になっている。これは詩を象徴
の次の段階に進めたということだ。
つまり、鳥を心の中の風物に変えてしまっている。象徴や比喩として
心に入れたのではない。本当に、空を飛ぶ鳥を心の中に入れてしまって
いるのだ。(略)
外にある物象を全部、心の中に入れないと言葉にできない。これは詩
人の全体像からすると、戦争というきわどい生死の体験から来ていると
思う。戦争体験から、こんなことが精神の中に生まれたのだ。
(吉本隆明『現代日本の詩歌』から)
「壁」が比喩でないように、「蚊」や「鼠」に何かが仮託されているわけではない。それは、読者が比喩を加える表象なのだ。ただ、ここには作者である「私」と「私」ではないものがいる。「私」でないものは「私」を素通りできない。むしろ、「私」を通らなければ、そこに言葉として現れない。
しかし、すごいのは、「剥げ落ちた壁が彼を見つめる」という詩句が示すように、同時に「私」自身も「私」を通って「彼」になっているのだ。「鼠」を見ている「私」を見ている「壁」が見ている「彼」は「私」だという関係。
あっ、そういえば、ジャン・ジュネの『女中たち』に、箪笥が見ているだか、家具が見ているといった表現があったような。そこにあるものが、裸形の存在である私を見つめる、自己の浸潤した他者のまなざし。と、同時に、自己と切り離された絶対他者という存在の気配。そんなこんなを連想してしまった。
で、戻る。
ここで現れる「彼」は、「私」が分裂したわけではない。自己の分裂によって引き出された「彼」ではない。ただ、「まなざす」という行為が真摯に行われているのだ。私はまなざす。だが、その私は同時にまなざされている。この関係を純粋に維持しているのだ。これはとりもなおさず、作者が求めている社会との関係でもある。作者と祖国の体制との関係とも考えられるのかもしれない。「まなざす」と「まなざされる」は、そこに「ある」ということを前提とする作業である。「ある」を認識すること。劉が存在していること。その認識。体制が存在すること。その認識。そして、そのお互いがお互いをまなざすこと。「ある」の認識。そして、「ある」は「なる」への道筋でもある。その道筋も、その「なる」への不可能性を含めて作者と祖国との関係を遠近している。
それにしても、何よりも、「私」という「彼」をまなざすものが、「壁」や「蚊」であることによって、「私」の孤独は痛切になる。だが、ここから精神の、強靱な、そしてしなやかな跳躍が始まる。
空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい
見つめ返すのだ。しかも、壁や蚊をではない。ここから、壁や蚊を引き受けた「私」は、この空間全体を空の月をまなざす視線に変えるのだ。
「銀色の影」とは何だろう。蚊か鼠か。「飛ぶ様」というのだから、飛び出せる蚊なのかもしれない。いや、飛ぶのは「影が」と書かれているのだから、「銀色の影」なのだ。鼠の影かもしれない。
だが、それよりも、差し込んでくる月の光と呼応する銀色が「美しい」のだ。室内全体が「私」となっている、その室内が銀色に塗りこめられるような印象を持つ。見つめる「壁」や見つめる「蚊」、そして、「彼」というここにある現象はすべて「私」の意識を通りながら、なお私にとっての他者なのだ。現象は私の意識でありながら、しかし、他者として確実に存在している。現象の始まりである。とてもプリミティブな現象と自己との関係が書き込まれている。そして、その全体が、月がある外をまなざす。
詩は、歴史を経てきた多くの詩に乗っかるように第二連に移行する。
今宵の鼠は紳士のようだ
食べず飲まず牙を研いだりもしない
キラキラ光る目をして
月光の下を散歩する
月はくまなく世界を照らす。ボクが見ているこの月を別の場所でキミも見ている。というこの感じ方は特別なことではない。離れ、引き裂かれている2人を考えたとき、窓外の月は、こんな連想を示す。しかし、それがここで胸に迫るのは、呼びかけるキミが題名の「霞へ」以外には詩の中に書き込まれていない点だ。抑制されているのだ。しかし、ボクらには、この言葉が向かう先にいるキミが見える。語りかけの対象がはっきりと自覚されているのだ。だから、「月光の下を散歩する」で終わっているのに、その月の光の下に、同じ月を見ているキミを想像できるのだ。いや、もっと痛切に、見ていて欲しいという思いが伝わってくるのだ。
また、この部分を、「鼠」に思いを仮託するという読みも可能かもしれない。「牢屋」から出て行ける「鼠」に、出て行けない自身を対比させ、現状を詠嘆するという感じ方だ。おそらく古典であれば、そういった定型をとるのかもしれない。そうなっていないところが現代詩なのかも。
むしろ、「鼠」は「私」である。だが、第一連で、「私」と「彼」というように意識を客観性の場に連れだしている。一連でまなざすとまなざされるを転換させてみせたのは、二連の「鼠」へとつながっていく。「私」から離れる「私」の意識とでもいえばいいのだろうか。それが「鼠」である。「壁」は「彼」を見つめ、「蚊」も「彼」を見つめるのだが、「鼠」だけはその表記がない。「鼠」は「彼」を見つめずに、「紳士のよう」なのだ。ここに「私」の意識は乗っている。「霞へ」の思いは、言葉となって「月光の下を散歩する」。いや、むしろ、まっすぐボクらに届いてくる。
と、ここまで書いて、全く別の読み方のほうが実はオーソドックスなのかなと思った。
「彼」というのは「鼠」のことなのだ、とする読み方だ。「鼠」が「紳士」になることを考えても、「鼠」の人称代名詞は「彼」だ。
そして、「鼠」に劉は自身を仮託する。「鼠」を劉の比喩にする。そうすれば、「月光の下を散歩する」という、ここで、「鼠」は劉の思いとなる。こう読めば、「彼」という人称代名詞がすっきりと解決できる。壁から見つめられる「彼」を「私」と考えたところで、この詩の読みを複雑にしてしまったのかもしれない。「彼」を「鼠」にすれば、「鼠」からだけ「私」が見つめられないのも当然になる。あとは、「鼠」に「私」が仮託され、「剥げ落ちた壁」「満腹になった蚊」に何かを仮託すれば、第一連は寓意的な、そして、暗喩の方向性を持った詩になる。その暗喩に込められた力も十分にボクを圧倒する。牢屋の鼠に仮託されたのが作者「私」であれば、見つめられているのは「私」になり、「私」の状況が描きだされていると考えればいいのかもしれない。「銀色の影」は「鼠」の影になる。「魅きつけられる」は意味的には「引きつけられる」でいいのかもしれない。「影」が「月」に引きつけられる。この読み方のほうがシンプルで、美しいかもしれない。すっきりする。合点がいく。「私」は、「鼠」は、「キラキラ光る目をして/月光の下を散歩する」。精神は、意志は、捕らえられない。
ブランキは、トーロー要塞の土牢の中で、『天体による永遠』という天体論、宇宙論を書いた。彼は何を見たのか、見ようとしたのか。ニヒリズムと永劫回帰が、そこにはあったのかもしれない。一方、劉暁波は、語りかけの中に、人へ、人へと帰ろうとする。
第1部ではやはり冒頭の詩が、1部全体への決定力を持っているのかもしれない。冒頭詩も気になりながら、それはまた、次の機会に。5部それぞれに気になる詩がある。しばらくは離れられない。
と、これだけで、いいのかもしれない。
だが、どうしても、こねくり回したくなってしまう。読みは、独断的と教科書的を往き来する。
なぜか。あたりまえ。そこにある詩が、捕らえて、抜けださせないほど、魅力的だからだ。
劉暁波。中国の民主化運動に深くかかわって、何度も投獄、自宅軟禁を繰り返す。現在、2008年の「08憲章」の中心人物として懲役11年の実刑判決を受け、服役中。2010年「ノーベル平和賞」を受賞。だが、中国政府がこれを認めず、授賞式は本人不在であった。この詩集の著者略歴から拾えば、このように紹介できるだろうか。
そして、彼は詩人なのだ。その彼の詩人としての初めての、まとまった詩集である。
何になることを夢想できるか。何になれると思うのか。その幅の広がりが自由の度合いのひとつだと考えられるのかもしれない。そして、それとは逆に、何ものかになりたいという願いの強度は不自由の尺度になるのかもしれない。何ものかへの欲求の強さは自由さと反比例する。そして、なれるものの偏狭さは不自由さと比例する。夢想の翼にはリアルの枠が存在するのだ。これが精神的な話にとどまらず、実際の身体的な不自由が、拘束が、加わった場合、さらに激しく緊張を強いる。さらに、何かになれることを夢想することさえ出来なくなる事態というものもあるわけで、そんな悲惨をボクらは何によって知り、何によって学ぶのだろう。
劉暁波詩集の第1部を読んだとき、「なる」への痛切な思いが胸を打つ。
詩集は5部構成になっている。その第1部「蟻が泣いている」から、どの1篇を引こうかずいぶん悩みながら、冒頭の詩「一通の手紙で十分だ」か詩集表題詩「牢屋の鼠」か。
で、「牢屋の鼠」。
一匹の小さな鼠が鉄格子の窓を這い
窓縁の上を行ったり来たりする
剥げ落ちた壁が彼を見つめる
血を吸って満腹になった蚊が彼を見つめる
空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい
今宵の鼠は紳士のようだ
食べず飲まず牙を研いだりもしない
キラキラ光る目をして
月光の下を散歩する
(「牢屋の鼠―霞へ」全篇)
ボクらは通常、「壁」を比喩として使う。例えば、陳腐だが「人生の壁」とか。
ところが、劉の詩は逆のベクトルを取る。「壁」は比喩ではなく、現実的な状況なのだ。むしろ読者がそこに自らの比喩を重ねる。では、単に現実を書いているだけか。それならば、同情しか呼び込まない。「壁」の中に比喩を呼び込んでいるのだ。
吉本隆明が田村隆一の詩について語っていた言葉がある。聞き語りを文にしているので切りにくいので長い引用になるが、田村隆一の詩「幻を見る人」の一部、「空は/われわれの時代の漂流物でいっぱいだ/一羽の小鳥でさえ/暗黒の巣にかえってゆくためには/われわれのにがい心を通らねばならない」を引いた後、
ここに示されているのは、我々の時代は、どんな豊かな自然を見て
も、いつも「にがい心」つまり、死の影を通してしか見ることができ
ない、小鳥たちの姿さえ、そのようにしか見られない、ということだ。
(略)
象徴詩人たちは、暗い気持ちを何かに託して表現してみせた。鳥が悲
しみの姿をしているとか、カラスが死を示しているとか。田村さんは違
う。自分の外にあるもの(鳥)と内側にあるもの(にがい心)を完全に
結び付けて表現する。それがしかも、詩になっている。これは詩を象徴
の次の段階に進めたということだ。
つまり、鳥を心の中の風物に変えてしまっている。象徴や比喩として
心に入れたのではない。本当に、空を飛ぶ鳥を心の中に入れてしまって
いるのだ。(略)
外にある物象を全部、心の中に入れないと言葉にできない。これは詩
人の全体像からすると、戦争というきわどい生死の体験から来ていると
思う。戦争体験から、こんなことが精神の中に生まれたのだ。
(吉本隆明『現代日本の詩歌』から)
「壁」が比喩でないように、「蚊」や「鼠」に何かが仮託されているわけではない。それは、読者が比喩を加える表象なのだ。ただ、ここには作者である「私」と「私」ではないものがいる。「私」でないものは「私」を素通りできない。むしろ、「私」を通らなければ、そこに言葉として現れない。
しかし、すごいのは、「剥げ落ちた壁が彼を見つめる」という詩句が示すように、同時に「私」自身も「私」を通って「彼」になっているのだ。「鼠」を見ている「私」を見ている「壁」が見ている「彼」は「私」だという関係。
あっ、そういえば、ジャン・ジュネの『女中たち』に、箪笥が見ているだか、家具が見ているといった表現があったような。そこにあるものが、裸形の存在である私を見つめる、自己の浸潤した他者のまなざし。と、同時に、自己と切り離された絶対他者という存在の気配。そんなこんなを連想してしまった。
で、戻る。
ここで現れる「彼」は、「私」が分裂したわけではない。自己の分裂によって引き出された「彼」ではない。ただ、「まなざす」という行為が真摯に行われているのだ。私はまなざす。だが、その私は同時にまなざされている。この関係を純粋に維持しているのだ。これはとりもなおさず、作者が求めている社会との関係でもある。作者と祖国の体制との関係とも考えられるのかもしれない。「まなざす」と「まなざされる」は、そこに「ある」ということを前提とする作業である。「ある」を認識すること。劉が存在していること。その認識。体制が存在すること。その認識。そして、そのお互いがお互いをまなざすこと。「ある」の認識。そして、「ある」は「なる」への道筋でもある。その道筋も、その「なる」への不可能性を含めて作者と祖国との関係を遠近している。
それにしても、何よりも、「私」という「彼」をまなざすものが、「壁」や「蚊」であることによって、「私」の孤独は痛切になる。だが、ここから精神の、強靱な、そしてしなやかな跳躍が始まる。
空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい
見つめ返すのだ。しかも、壁や蚊をではない。ここから、壁や蚊を引き受けた「私」は、この空間全体を空の月をまなざす視線に変えるのだ。
「銀色の影」とは何だろう。蚊か鼠か。「飛ぶ様」というのだから、飛び出せる蚊なのかもしれない。いや、飛ぶのは「影が」と書かれているのだから、「銀色の影」なのだ。鼠の影かもしれない。
だが、それよりも、差し込んでくる月の光と呼応する銀色が「美しい」のだ。室内全体が「私」となっている、その室内が銀色に塗りこめられるような印象を持つ。見つめる「壁」や見つめる「蚊」、そして、「彼」というここにある現象はすべて「私」の意識を通りながら、なお私にとっての他者なのだ。現象は私の意識でありながら、しかし、他者として確実に存在している。現象の始まりである。とてもプリミティブな現象と自己との関係が書き込まれている。そして、その全体が、月がある外をまなざす。
詩は、歴史を経てきた多くの詩に乗っかるように第二連に移行する。
今宵の鼠は紳士のようだ
食べず飲まず牙を研いだりもしない
キラキラ光る目をして
月光の下を散歩する
月はくまなく世界を照らす。ボクが見ているこの月を別の場所でキミも見ている。というこの感じ方は特別なことではない。離れ、引き裂かれている2人を考えたとき、窓外の月は、こんな連想を示す。しかし、それがここで胸に迫るのは、呼びかけるキミが題名の「霞へ」以外には詩の中に書き込まれていない点だ。抑制されているのだ。しかし、ボクらには、この言葉が向かう先にいるキミが見える。語りかけの対象がはっきりと自覚されているのだ。だから、「月光の下を散歩する」で終わっているのに、その月の光の下に、同じ月を見ているキミを想像できるのだ。いや、もっと痛切に、見ていて欲しいという思いが伝わってくるのだ。
また、この部分を、「鼠」に思いを仮託するという読みも可能かもしれない。「牢屋」から出て行ける「鼠」に、出て行けない自身を対比させ、現状を詠嘆するという感じ方だ。おそらく古典であれば、そういった定型をとるのかもしれない。そうなっていないところが現代詩なのかも。
むしろ、「鼠」は「私」である。だが、第一連で、「私」と「彼」というように意識を客観性の場に連れだしている。一連でまなざすとまなざされるを転換させてみせたのは、二連の「鼠」へとつながっていく。「私」から離れる「私」の意識とでもいえばいいのだろうか。それが「鼠」である。「壁」は「彼」を見つめ、「蚊」も「彼」を見つめるのだが、「鼠」だけはその表記がない。「鼠」は「彼」を見つめずに、「紳士のよう」なのだ。ここに「私」の意識は乗っている。「霞へ」の思いは、言葉となって「月光の下を散歩する」。いや、むしろ、まっすぐボクらに届いてくる。
と、ここまで書いて、全く別の読み方のほうが実はオーソドックスなのかなと思った。
「彼」というのは「鼠」のことなのだ、とする読み方だ。「鼠」が「紳士」になることを考えても、「鼠」の人称代名詞は「彼」だ。
そして、「鼠」に劉は自身を仮託する。「鼠」を劉の比喩にする。そうすれば、「月光の下を散歩する」という、ここで、「鼠」は劉の思いとなる。こう読めば、「彼」という人称代名詞がすっきりと解決できる。壁から見つめられる「彼」を「私」と考えたところで、この詩の読みを複雑にしてしまったのかもしれない。「彼」を「鼠」にすれば、「鼠」からだけ「私」が見つめられないのも当然になる。あとは、「鼠」に「私」が仮託され、「剥げ落ちた壁」「満腹になった蚊」に何かを仮託すれば、第一連は寓意的な、そして、暗喩の方向性を持った詩になる。その暗喩に込められた力も十分にボクを圧倒する。牢屋の鼠に仮託されたのが作者「私」であれば、見つめられているのは「私」になり、「私」の状況が描きだされていると考えればいいのかもしれない。「銀色の影」は「鼠」の影になる。「魅きつけられる」は意味的には「引きつけられる」でいいのかもしれない。「影」が「月」に引きつけられる。この読み方のほうがシンプルで、美しいかもしれない。すっきりする。合点がいく。「私」は、「鼠」は、「キラキラ光る目をして/月光の下を散歩する」。精神は、意志は、捕らえられない。
ブランキは、トーロー要塞の土牢の中で、『天体による永遠』という天体論、宇宙論を書いた。彼は何を見たのか、見ようとしたのか。ニヒリズムと永劫回帰が、そこにはあったのかもしれない。一方、劉暁波は、語りかけの中に、人へ、人へと帰ろうとする。
第1部ではやはり冒頭の詩が、1部全体への決定力を持っているのかもしれない。冒頭詩も気になりながら、それはまた、次の機会に。5部それぞれに気になる詩がある。しばらくは離れられない。