パオと高床

あこがれの移動と定住

カフカ『変身』想(2)

2011-09-27 08:40:32 | 海外・小説

2
 グレーゴルの発声を聞いて家族が感じる恐怖は、グレーゴルの姿を見たときの驚きに先行する。声は家族とグレーゴルとの関係ののっぴきならなさ、避けられない関係を象徴する。家族が持つ主体性に、グレーゴルの声は侵入するのだ。
 母の呼びかけに答える自分の声を聞いてグレーゴルは驚く。視覚的な姿より声の違和が主人公を驚かす。

  ところが自分が答える声を聞いて、グレーゴルは仰天した。ふだんの声と
 大ちがいで、しかもへんな音がまじっている。

 カフカは虫となった身体の動きを克明に描写していく。その想像力の当然の流れとして、虫になっているのだから、声も変化するだろう。これで、事態の説明の手段は失われてしまう。ヒト的な意識は外部に出せなくなる。と、同時に、距離をなくして虫としての主体性を主人公が引き受けざるを得なくしてしまうのだ。視覚で捉えた場合には、まだ可能な客観的立場の確保が、耳で自分の声を聞くという主体認識によって妨げられるのだ。それは、グレーゴルの声を聞いた家族へと拡がっていく。呼びに来た会社の支配人に、一気呵成に弁明するグレーゴルの発声は、もう聞き取ることができない。

  「たいへんだわ」
  母はもう涙声だった。(中略)
  「おまえ、大急ぎで医者に行っておくれ。グレーゴルが病気なの。大至急、
 医者を呼んできておくれ。グレーゴルの声を聞いたかい?」
  「獣の声でしたよ」
  母の叫び声に対して、めだって小声で支配人が言った。

 木村敏は、『時間と自己』で、こんなことを書いている。

  ものを見るというはたらきが一定の距離をおいてはじめて成立するのに対
 して、聞くということは-肉声を聞く場合でも心の声を聞く場合でも-私たち
 自身の間近で生起する。私たちは聞えてくる声に対して、いかなる距離を
 とることもできない。
                         木村敏『時間と自己』

 これは、「もの」と「こと」ということについての木村敏の考察の中にある「聞く」ことについての一節である。「ものが客観の側にあるのに対してことは主観の側に、あるいは客観と主観のあいだにある、という言いかたをした。ことがなんらかの声として聞かれるのであるからには、この『あいだ』はそれ自身、限りなく自己に近いところに、自己それ自体と区別のつかぬような場所としてあるのに違いない。」とつながる。これは、グレーゴルの発声にもつながるのではないだろうか。
 人間の声を聞きとめて、声が人間のままであることによってダイアローグが可能になっているのが、中島敦の『山月記』である。この『山月記』も、声である。虎になった李徴は、声として袁慘に出会う。その姿はラストで現れる。それは、李徴と袁慘の別れであるし、李徴の人間からの別れの場面である。声の間は二人の間に絶対的な距離はない。『山月記』の李徴との出会いの場面について袁慘はこう考える。

  後で考へれば不思議だったが、其の時、袁慘は、この超自然の怪異を、実
 に素直に受け容れて、少しも怪まうとしなかった。
                           中島敦『山月記』

 ところが、ここで、発声という同じ行為が行われながら、同様の関係の離れがたさが準備されながら、人語であるか異語であるかによる決定的な違いが生まれる。

  青年時代に親しかった者同士の、あの隔てのない語調で、それ等が語られ
 た後、袁慘は、李徴がどうして今の身になるに至ったかを訊ねた。

 「親しかった者同士」の「語調」で語り合い、「どうして」と「訊ねる」のだ。ここでは、それに対する解答は用意されている。カフカの『変身』では、最初からそれは、小説の外部になっているのだ。内面を相手に伝えるという語りの可能性が、設定における極端な不可能性に覆われてしまうのだ。
 もちろん、グレーゴルである虫はうごめき続ける。虫である以上生きものである。しかし、ここにはアドルノの次のような指摘が待ちかまえているのだ。

  すべての自己主張を放棄した弱りゆく意識の失墜のなかで、主観の底に姿
 を現してくる物質的なもの、そうした、たんにそこに在るものの領域にまで
 突入してゆく。人間を通りぬけ非人間的なものへ逃走すること-これがカフ
 カの叙事詩のとる軌道である。
  アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳

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