パオと高床

あこがれの移動と定住

カフカ『変身』想(3)~(4)

2011-09-28 10:51:47 | 海外・小説
3
 問いの欠落。軽い疑義はある。先ほどの引用のように「どういうことだろう」ぐらいの。しかし、重大な問いは欠落しているのだ。主人公や家族は「なぜ」と問わない。すでにある現象が状況を作っている。その現象への近代的な懐疑は剥奪されている。それは、あってしまったことでの因果は生むが、あってしまったことへの因果は欠落している。当初の変身への因果が刻まれていないのだ。その結果、状況と状況は連鎖するが、起因自体は宙づりになる。
 さらに因果の欠落に関して、中島敦の『山月記』を思い出してみよう。虎になる因果は、その内面に探られるのだ。いわば、内面が現れ出た姿が虎である。内面の外在化と言えるだろう。虎化していかざるを得ない人間の業が刻まれる。自ら虎になるのである。しかし、『変身』では、その過程は抜け落ちている。なぜ、虫になったのかだけではなく、そもそも虫になるのか、虫にされるのかの問いも宙づりにされる。そこでは、現実として虫になったものがいて、現実として虫と暮らす現実が記述されるのだ。虫になるという極めて特殊な状況が、何だか、一般化されてしまっているようだ。その一般化は問われることを拒絶しはしないが、一般的な答えになびきはしない。多くの意味の介入が可能になりながら、解答の不可能が起こる。『山月記』と『変身』における因果の有無は、小説のもたらす現実の持つ比重の差異なのだ。もう少しいえば、現実に働きかける人間の持つ重さの差違かもしれない。『山月記』では人間性は人間の本性と分かちがたく結びつけられている。一方、『変身』では、クンデラの小説の題名を借りれば、『存在の耐えられない軽さ』として人間はそこにあるのだ。
 また、問わなさは、神に問い続けることで神の試練にあうヨブに比較される、試練の中で問わないアブラハムを連想させる。内田樹は、レヴィナスの読解から、アブラハムとヨブのあり方に注目していく。

  ヨブとアブラハムは同じ種類の不条理の前に立たされている。アブラハム
 が黙してイサクを犠牲に捧げたのに対し、ヨブは「納得できない」と神に抗
 議する。その結果、ヨブには「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くする
 この者はだれか」(「ヨブ記38-2」)という轟音のような「主」の声が臨む。
  一方、アブラハムは神の祝福を受ける。
             内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』

この比較は、問うことと問わないことの位置づけを、そう、まさに、問う。それは、受け容れることを導き出す。

  「私はここにおります」というのは、神の呼びかけに対して答えるときの
 言葉である。(中略)神からの呼びかけに対して、人間は「これはどういう意
 味なのだろう」と思量し、そのメッセージの意味を完全に理解してから行動する
 のではない。人間がことばを知ったのは神のことばを解読する作業を通じて
 である。人間のことばそれ自体が神のことばによって基礎づけられている以
 上、神のことばの合理性や適法性を人間のことばに準拠して判断するという
 ことは背理となる。だから、人間は神の呼びかけには間髪を容れずに「はい、
 私はここにおります」と答え、その不可解な命令を恭順に受け容れなければ
 ならない。
             内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』

 そこに存在することが問いに先行してある。
 内田樹はレヴィナスの思想を語っていくので、ここで「汝の隣人を愛せ」という命令が持っている、なぜ全能の神はみずからではなく、「私に救わせようとするのであろう?」といった「不条理さ」を指摘し、しかし、「それにもかかわらず、レヴィナスはこの命令」に対して「はい、私はここにおります」と即答しなければならないと教えていると書く。そして、「命令の当否を検証するに先んじて、その命令を信認する」こと、そこに「倫理性」が「胚胎するのである」と述べる。この内田の展開は、カフカの『変身』にあてはまるものではない。しかし、問いの欠落が想起させる受難に直面した人間の姿は、ヨブとアブラハムに関する物語を連想させるのだ。そして、ここに新しい謎も付随してくる。むしろ、グレーゴルがヨブ的であった方が理解しやすいのかもしれない。「ヨブはある意味では〈近代人〉である」という内田の指摘を待つまでもなく、問いながら悲劇であるとすれば、僕らは受難のドラマとして『変身』を収束させるのかもしれない。ところが、問題は、アブラハム的でありながら祝福されないところである。ここにはヒロイックな悲劇性はない。〈近代人〉とは違う何ものかがいて、悲劇ではない何かがあるのだ。受容と祝福の断絶。苦い笑いとうすら寒いものが漂っている。この風は存在の陥穽から吹いてくるのかもしれない。

4
 ベンヤミンの『フランツ・カフカ』冒頭の「ポチョムキン」の寓話。将軍ポチョムキンは定期的に鬱状態になり、そうすると誰も近づけず、処理できない書類がたまる。その書類に署名させるため、シュヴァルキンがポチョムキンの部屋に紛れ込み、ポチョムキンの手にペンを握らせ、放心状態の彼に署名させる。シュヴァルキンは意気揚々と戻り、皆に書類を見せたのだが、皆は凍り付く。そこに書かれた署名はシュヴァルキンとなっていたのだ。この寓話をベンヤミンは「カフカの作品に二百年も先駆けるひとりの伝令のようである」として引いている。そして、川村二郎は『アレゴリーの織物』において、この寓話を引用して、ベンヤミンの趣旨を読みとった上で、なお「読み換えたい気持ちが疼く」として、ポチョムキンをカフカに置き換え、「論者たちはわれがちにその室内に押し入り、カフカの自筆署名を得たつもりで意気揚々と引き上げるのだが、戻って見れば、カフカの代りに論者自身の名しか紙の上には記されていない」という読み換えを書いている。カフカについての様々な人のいかようにも読んでいく著者カフカ名から離れた読者名入りカフカ。それでも読者名入りカフカを語りたくなるのがカフカなのかもしれない。川村二郎もその読み換えに続けて、「論者におのおの名を書き与え、自分の名は決して明さぬことにこそ、カフカの本性が、いわば陰画の形であらわれているのではなかろうか。」と書いている。しかし、さらに、こうも書く。「誤解のケルンに石を一つ積む結果にしか終らぬような気がする」と。読むことの困難が横たわる。だが、それも含めて、それだからこそ、カフカはそこにいる。

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