詩は挌闘の現場なのかもしれない。それを忘れてはいけないのかもしれない。叙事と言葉の格闘の軌跡をみせた杉谷さんの詩集があった。この高岡さんの詩集は、言葉が言葉と格闘するとでも言えばいいのだろうか。あらかじめ生まれている詩語が、生まれだそうとする詩語によって激しく緊張する。すでにある詩語は、そぎ落とされる恐怖と塗りこめられる危険を感じ、生まれ出づるものの声に身もだえする。それこそが、生まれ出るものなのだ。詩語が再生する。その現場が詩の強固な魅力となる。そして、言葉が刻む言葉との格闘は、言葉とイメージの格闘でもある。冒頭に置かれた詩は、そんな詩の現場を描きだしている。
暁の空があんなに赤いのは
そこに夢の溶鉱炉があって
一夜の僕らの夢のすべてを溶かしているからである
(「溶鉱炉」全篇)
溶鉱炉に投げ込まれた言葉はイメージもろとも溶かされる。その高温の臨界点から言葉は一気に冷却される。急激な温度差によって熱を宿したまま凝結する言葉。溶けこんだものを内包しながら張り出してくる切り取られた言葉。削り取られ、そぎ落とされたあとに残された言葉は、イメージを抱え込んで、詩とそうでないものとの懸崖を示し、詩として屹立する。その佇まいが、格好いい。
右手と左手ではどちらがより懐疑的なのか
いくつもの自爆テロのニュースを煮詰めてパンに塗りつける朝
水平に置くとバターナイフはすぐに瞑想しはじめる
(「朝食」全篇)
蟷螂の斧がまさぐっている濡れた太陽の青いへり
鳥とは飛翔する奈落である
生まれたばかりの虹がひとつ鳥の砂嚢で擦りつぶされる
(「雨後の慣習」全篇)
詩集冒頭三篇を並べてみた。これは「世界と、その微分を質量する三行詩」という題でまとめられている11篇の三行詩中の三篇である。世界は微分されている。その微細と極大。まなざしは、まなざされたものの背後に膨大な世界の存在が兆す。凝縮された三行は、凝縮されたエネルギーの分だけの質量を持つ。そこに、現代への鎮魂の気配まで宿っているようなのだ。この三行詩群の最後に配置された一篇。
反物質にはあきあきしている
僕らの世界にあって盲しいるとはより深く生きるということだ
朝毎のテーブルの花瓶には僕らの切り裂かれた眼の花々が飾られる
(「眼の花々」全篇)
詩集『月光博物館』は冒頭の「世界と、その微分を質量する三行詩」11篇に続いて、「世界と、その構造に関するノート」という章題でまとめられた、6篇の詩、そして10篇の章からできている「月光博物館」という詩で構成されている。短い詩句で構成されているものから、比較的長い詩まで、様々なスタイルを示す。ただ、どの詩も言葉の切れが鋭い。今、僕たちがいる世界の構造と現代という時間の構造がまなざされる。そこには、悪意と危機が、ひそみ、また間欠する。
世界は残像のなかに浮上する
わけても殺されたものたちの最後の残像にあって
世界はひときわ鮮明となる
(「世界と、その夕映えの構造に関するノート」冒頭)
あるいは、
ひとつの視姦から無数の視姦へ
鎖としてつながれた鉄の輪のひとつひとつの眼である僕ら
僕らは、僕は、視姦の青空を所有する
僕らは、君は、視姦の偏執的な傾斜を所有する
僕らは、君らは、視姦の淫らな深層へ美意識の全てを投げ入れる
(「世界と、その視姦の構造に関するノート」一部)
僕らは、時代の構造のまっただ中に投げ入れられる。そこで何を見つめることが可能なのか。圧倒的な力の気配におののいてしまう。出会うものは何か。見つめられる自らと見つめる自らは決して分裂しはしない。しかし、それは構造化された世界システムに絡め取られているからなのだ。が、また、そのことによって言葉が抗う地平が生まれる。
僕らは柩構造のなかへ誕生する
まるで言語という方舟構造のなかへ誕生するかのように
(「世界と、その柩の構造に関するノート」冒頭)
生に射しこむ月光は、死を孕み、様々なものに変異する。それ自体時間を超える存在でありながら、有限な事象を捉えて放さない。ゆえに、月光は「博物館」になる。
その月光博物館には
外壁はおろか
いかなる内壁も存在しない
入口とおぼしきところを過ぎると
そこはもう月光だけの世界である
(「月光博物館 00」冒頭詩)
こうして「月光博物館」に招き入れられる。
01
まず月光の森がある
月光の湖があり
月光の砂漠があり
月光の都市がある
もちろんそれらはどれもが現実のものより遥かに縮小されたものであ
るが
これが「01」章の書き出しである。「02」は、こう続く。
02
次は博物史としての月光のエリアである
月光もまたその始源より
死と誕生をくり返しているのである
僕らが招き寄せられた「月光博物館」は、〈月光言語のエリア〉である。そこでは、
殺意という一語においてしか語りえないその美意識によって
月光言語のエリアは
限りなく美しく
そのまま
自我の卵状を形成しているのである
(「月光博物館 06」終部)
言葉を生みだす世界の構造は、言葉によって構造化されながら、言葉によって透徹される。顕わになるのは詩がみせる人と世界とのスリリングな現場である。
暁の空があんなに赤いのは
そこに夢の溶鉱炉があって
一夜の僕らの夢のすべてを溶かしているからである
(「溶鉱炉」全篇)
溶鉱炉に投げ込まれた言葉はイメージもろとも溶かされる。その高温の臨界点から言葉は一気に冷却される。急激な温度差によって熱を宿したまま凝結する言葉。溶けこんだものを内包しながら張り出してくる切り取られた言葉。削り取られ、そぎ落とされたあとに残された言葉は、イメージを抱え込んで、詩とそうでないものとの懸崖を示し、詩として屹立する。その佇まいが、格好いい。
右手と左手ではどちらがより懐疑的なのか
いくつもの自爆テロのニュースを煮詰めてパンに塗りつける朝
水平に置くとバターナイフはすぐに瞑想しはじめる
(「朝食」全篇)
蟷螂の斧がまさぐっている濡れた太陽の青いへり
鳥とは飛翔する奈落である
生まれたばかりの虹がひとつ鳥の砂嚢で擦りつぶされる
(「雨後の慣習」全篇)
詩集冒頭三篇を並べてみた。これは「世界と、その微分を質量する三行詩」という題でまとめられている11篇の三行詩中の三篇である。世界は微分されている。その微細と極大。まなざしは、まなざされたものの背後に膨大な世界の存在が兆す。凝縮された三行は、凝縮されたエネルギーの分だけの質量を持つ。そこに、現代への鎮魂の気配まで宿っているようなのだ。この三行詩群の最後に配置された一篇。
反物質にはあきあきしている
僕らの世界にあって盲しいるとはより深く生きるということだ
朝毎のテーブルの花瓶には僕らの切り裂かれた眼の花々が飾られる
(「眼の花々」全篇)
詩集『月光博物館』は冒頭の「世界と、その微分を質量する三行詩」11篇に続いて、「世界と、その構造に関するノート」という章題でまとめられた、6篇の詩、そして10篇の章からできている「月光博物館」という詩で構成されている。短い詩句で構成されているものから、比較的長い詩まで、様々なスタイルを示す。ただ、どの詩も言葉の切れが鋭い。今、僕たちがいる世界の構造と現代という時間の構造がまなざされる。そこには、悪意と危機が、ひそみ、また間欠する。
世界は残像のなかに浮上する
わけても殺されたものたちの最後の残像にあって
世界はひときわ鮮明となる
(「世界と、その夕映えの構造に関するノート」冒頭)
あるいは、
ひとつの視姦から無数の視姦へ
鎖としてつながれた鉄の輪のひとつひとつの眼である僕ら
僕らは、僕は、視姦の青空を所有する
僕らは、君は、視姦の偏執的な傾斜を所有する
僕らは、君らは、視姦の淫らな深層へ美意識の全てを投げ入れる
(「世界と、その視姦の構造に関するノート」一部)
僕らは、時代の構造のまっただ中に投げ入れられる。そこで何を見つめることが可能なのか。圧倒的な力の気配におののいてしまう。出会うものは何か。見つめられる自らと見つめる自らは決して分裂しはしない。しかし、それは構造化された世界システムに絡め取られているからなのだ。が、また、そのことによって言葉が抗う地平が生まれる。
僕らは柩構造のなかへ誕生する
まるで言語という方舟構造のなかへ誕生するかのように
(「世界と、その柩の構造に関するノート」冒頭)
生に射しこむ月光は、死を孕み、様々なものに変異する。それ自体時間を超える存在でありながら、有限な事象を捉えて放さない。ゆえに、月光は「博物館」になる。
その月光博物館には
外壁はおろか
いかなる内壁も存在しない
入口とおぼしきところを過ぎると
そこはもう月光だけの世界である
(「月光博物館 00」冒頭詩)
こうして「月光博物館」に招き入れられる。
01
まず月光の森がある
月光の湖があり
月光の砂漠があり
月光の都市がある
もちろんそれらはどれもが現実のものより遥かに縮小されたものであ
るが
これが「01」章の書き出しである。「02」は、こう続く。
02
次は博物史としての月光のエリアである
月光もまたその始源より
死と誕生をくり返しているのである
僕らが招き寄せられた「月光博物館」は、〈月光言語のエリア〉である。そこでは、
殺意という一語においてしか語りえないその美意識によって
月光言語のエリアは
限りなく美しく
そのまま
自我の卵状を形成しているのである
(「月光博物館 06」終部)
言葉を生みだす世界の構造は、言葉によって構造化されながら、言葉によって透徹される。顕わになるのは詩がみせる人と世界とのスリリングな現場である。
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