パオと高床

あこがれの移動と定住

高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』(講談社文芸文庫)

2006-05-13 21:45:40 | 国内・小説
すごいよ、すごい。多分、このぐらいすごいだろうと思った以上だった。
高橋源一郎は、変な言い方だが、文学をブンガクにすることで、文学を豊穣な
「世界」に立たせている。浅薄になりそうな世界の有り様に痛烈に「否」を唱えている。ブンガクであることで文学史にしっかり個人の亀裂を入れている。
これは、例えば、ドナルド・バーセルミだったり、アメリカン・アヴァンギャルドの作家たちだったり、方法的にヌーヴォー・ロマンの作家たちだったり、がやったことを見事に、成立させているのだ。
メタファーが言葉の仮面をかぶり自立してキャラクターとして動く。そこに観念を超える「痛さ」の実感が溢れてしまうのが、高橋の、タカハシの、オリジナリティーなのだ。
また、
実は言葉の世界はリアルの世界なのだ。と、疑似リアルを飛び越して襲って来ちゃうところが凄いのだ。

この『ジョン・レノン対火星人』はかなり以前に読んだ『虹の彼方に』より面白いように思う。あの、『虹の彼方に』を読んだときの驚きを超えちゃった。
憤り、怒り、痛切さ、とんでもないあっけらかん、憎悪、そして、再生への非道義的な欲求、粘質性と淡泊さ、デフォルメされたコラージュ、ラディカルさ、こぼれおちるリリカルな精神、そして辻褄あわせへの拒否、これを支える強靱な知の躍動、しかし、同時にそれを支える脆さ。これらが表現の場に踊り出しているのだ、観念は観念の領域を変え、現実は現実の領域を変え、相互が織りなすリアリティの在処を求めて。
変革されるべき何ものかは、常に変革を求める意志の中にあり、その意志は、否応なしに訪れる宿命的な偶然の中に育つものかもしれない。その、仮借なさに、表現は、表現の自由を求めて戦い続けるものなのかもしれない。本来(?)・・・。
今でも、とっても刺激的な一冊だった。


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