パオと高床

あこがれの移動と定住

大岡昇平『野火』(新潮文庫)

2006-12-09 09:45:32 | 国内・小説
戦後文学の記念碑的作品、あるいは問題作としてよく言及される小説である。
スタンダリアン大岡昇平は、「私」の視点を通して、その私の心理の動き、それが映しだす世界を描き出していく。描かれるのは戦争における極限状況である。心理はその中で明晰に狂っていく。しかし、これを狂気と呼べるのだろうか。人が人から逸脱していく。倫理の外へと葛藤しながら連れ出されていく。そのことが人間を映しだす。
部隊から離れた私は孤独な移動を余儀なくされる。生きていない、そして死んでいない状態での地獄巡りである。この彷徨は、生きるために、飢えや恐怖と闘うために、倫理の逸脱へと向かっていく。人殺しと人肉食いがぽっかりと穴を空けて待っている。主人公が人肉を取ろうとするその右手を左手で押さえる。ここは重く迫ってくる。一個の個人の分裂が生まれるのである。欲望を抑える倫理の左手ということが出来るだろう。しかし、そのとどまりは、その地点で終わりにはならない。「それでは私のこれまでの抑制も、決意も、みんな幻想にすぎなかったのであろうか。僚友に会い、好意という手段によれば、私は何の反省もなく食べている」という「転身」が待ち受けているのだ。

太平洋戦争から朝鮮戦争への時代の流れの中で「人間」を問うている小説の凄さを感じさせる作品である。
これは、現在では、あきらかな時勢のきな臭さと重ねて読むことが出来る。あるいは遺伝子工学やバイオテクノロジーなどにおける右手と左手の関係を示唆している。主人公の個別性は人の普遍性に変わり、状況の極限さもあまねく世界の状況に移り、時代の特殊も時代を超えて現代に繋がる。小説が生きているということを示している小説だ。

主人公が見つめられていると感じる「彼」=まなざしが、一神教的神であったり、アニミズム的神であったり、人であったりしていくことが、価値の戦いを示している一例なのかもしれない。あるいは、いかなる価値であっても、人が逃れられずに持っている「人間性」とは何かという問いがあるのだということを示しているのかもしれない。

戦争のハイテクノロジー化は進んでいる。戦地に行かずに遠隔操作で一方には被害なく戦争を行うロボット開発などが進んでいる。殺戮の実感無き殺戮。しかし、そこに死の実体がある以上、行為としての殺人は存在するのだ。また、攻撃された現場がある以上、悲惨な戦地は存在する。みんなが当事者でない意識のままに行われる戦争というものが現実に存在したら、死はどこに位置するのだろう。倫理は殺される側にしか存在しなくなるのだろうか。


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