パオと高床

あこがれの移動と定住

博多座公演「ラ・マンチャの男」

2012-05-24 01:42:28 | 雑感
松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」を観る。
ミュージカルの世界に浸ることのできた2時間数分だった。

さすがに脚本がよくできている。囚われたセルバンテスが、牢獄の中で囚人達と即興劇を行うという、劇中劇の構造が採られている。劇中劇は、それこそお芝居ではよく使われる手法だが、ペーター・ヴァイスの「マラー/サド」を思いだした。この二重構造は、セルバンテスや囚人達の置かれた時代状況とその中で演じられるドン・キホーテ劇の状況の両方を描く。そうすることで、夢と現実、現実と虚構を劇の構造自体が示し、苛酷な現実の中で夢を見る想像の力を語りかけてくるのだ。
そこにさらに、劇中劇の中のキハーナが「妄想」の中でドン・キホーテになるという構造が入り込む。キハーナの現実と夢が交差するのだ。これは、テーマ曲の曲名通り「見果てぬ夢」の連鎖を作る。そして、騎士となって遍歴をする夢への遍歴を示しているのだ。
また、囚人達は、演じることで、囚われているという自分たちの現実から離れようとすることになる。彼らもまた、即興劇の間は、夢見る人々になることができるのだ。そこで、彼らにも、「見果てぬ夢」を歌う資格が、欲求が、与えられる。
松たか子演じるアルドンサにも、この構造は効果的に生かされる。劇中劇では旅籠の下働きのアルドンサは、ドン・キホーテの妄想の中でドルシネア姫になる。アルドンサはありえないと思いながらも、ドルシネアに自分の夢を重ねていく。それは、もともと囚人であった女が、アルドンサの役を通して見ことができた夢の形象になっているのだ。
そして、「見果てぬ夢」の歌詞が響いてくる。

 夢は稔り難く
 敵は数多なりとも
 胸に悲しみを秘めて
 我は勇み行かん

現実に対峙するには夢の力が大切なのだ。人は想像力で生きる動物なのかもしれない。

演出は随所に歌舞伎の手法を取り入れて、様式をうまく使っている。また、立体性に優れた博多座の縦の空間を使った舞台セットはよかった。
サンチョ役の駒田一がいい味を出していた。この劇では、サンチョの出来が、面白さに大きく作用すると思う。このサンチョは魅力的だった。
松本幸四郎については、もうわざわざ言うまでもなく、上条恒彦は相変わらず魅力的な声を出してくれる。そして、そして、松たか子。この人は怪物だ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 辺見庸『眼の海』(毎日新聞社) | トップ | 井本元義『ロッシュ村幻影 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

雑感」カテゴリの最新記事