パオと高床

あこがれの移動と定住

志賀直哉『暗夜行路』(新潮文庫)

2009-04-07 02:12:21 | 国内・小説
例えば、ブラームスがベートーヴェンの交響曲と格闘しながら第一交響曲を完成させたように、志賀直哉は漱石の連ねた長編群と格闘しながら『暗夜行路』一編を生み出したのではないだろうかと思ってみたりする。その完成までの歳月の長さを考えてみれば。
漱石の「則天去私」に対して、すでに肥大化しつづける「私」は自然の中にどう解消されていくのか。

長編の持つ加速されていく吸引力は、この小説でも十分に発揮されている。むしろ、その感動の一瞬が、それまでの読み進めるうちにおこった奇妙な感覚、時として感じる妙な違和感をもたらす部分を圧倒してしまう。後編二部が持つ速度感は大山の場面へと収斂されていく。

保坂和志が「私」の濃度によって小説の人称を分析していた本があったと思うが、この小説、時任謙作の「彼」を「私」と置き換えても、ほとんど違和感がないような気がする。では、何故三人称小説にしたのか。例えば、三人称であることでの主人公以外の心理の動きや描写ができる利点や、主人公不在の別の場を描き出せるといった作家の専制力を使っているかというと、三人称でありながら、主人公のいる場所、主人公の視線を通してしか表現されていないような気がするのだ。つまり謙作=彼とおかれているところを「私」とおいても何ら不自然さがないという不自然さ。ところが、むしろそれが妙に文章を立ち上げる力を持っているのだ。景色や心理を描き出す文章の力になっているのだ。我執にいかない自己肯定や倫理に抑制される自己懐疑が、自然に流露されるような感じを醸し出す。三人称でありながら、持っている一人称性が効いているのだ。
一方、訪れる様々な試練に対する「自我の実験室」のような様相は、三人称であることで、どこか客観性を持っていて、試練の中で獲得していく実存性につながっている。三人称を突き抜ける自我の、自己肯定の強さと、それを封じ込めようとする三人称の客観性が倫理のバランスのように思えてくる。そして、この実存性が、自然の中で交感し合うように溶解していくラストは東洋性への回帰や漱石との格闘から別の地点を目指そうとしているかのような息づかいが感じられるのだ。自意識が宿命性と結託して澱のように溜まってくるものを体内から吐き出してしまうその身体的な疲弊の先に、精神が獲得していく再生の契機。自分が自分についていくと受容することで、自らと他者に対する視界は開かれ、許すという傲岸さの先にある真の許しとしての自らと相手への許容が、心を静かに解放していく。

この三人称性は、無意識と意識の葛藤を描き出すのに有効に作用している。
出生の宿命が心の底に沈む。さらに、そのことから苛酷な事柄が謙作の心に溜まっていく。それは無意識の部分をかたどっている。それが唐突に行動に影響を与えるところを描き出すのに、一人称では無意識を意識化する矛盾を孕むことがあるのだが、三人称なので、行動の描写のあとに、意識が、自身の無意識について考察するという方法がわりとすんなり読める。この小説を、無意識に澱んでいく事柄と意識との葛藤のドラマとして読むことができるのだ。そこには自己を自己として捉えることの困難が現れてくる。それは許すということに結びついてくる。直子を許すということは自身を飼い慣らすということにつながる。それを抑圧ではなく自然としてどう受容するか。献身や自己犠牲による忍従ではなく、自己肯定しながら許し合える姿となって自らの解放とつながる、許しの先の受け入れ、同伴するという姿。僕らの自我は、自意識は、自己は、自らを自らどう飼い慣らして、解放するのだろうか。その時、倫理のとる姿はどんななのだろうか。それを模索した小説だといえるような気もする。

ただ、どうにも前編が、大変だった。それと、この主人公の社会性をどう見るか。ただし、「主人持ちの文学」を嫌った志賀直哉であってみれば、小説とは、それ自体が一つの社会であるべきものなのかもしれない。

志賀直哉の短編が読みたくなった。
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