パオと高床

あこがれの移動と定住

寺山修司『レミング-世界の涯てまで連れてって』(クインテッセンス出版『寺山修司著作集3』から)

2009-04-11 01:41:13 | 詩・戯曲その他
  「ほうら 事実が死んだ!」

こうセリフを刻んだ寺山修司の「事実」というものに対する「虚構」の位置の際立ちが、僕らを引きつける。虚構は虚構を食いながら「事実」を侵犯する。夢の対義が現実ならば、夢を現実化する演劇の舞台における実在は、そもそも現実を脅かすものなのだ。
『レミング』では、壁が「世界の暗喩」だと考えられる。「壁抜け」の持つ冒険は、事実と虚構の壁を消し去っていく。消失してしまった壁。それは、「他者」と「自己」の問題としてとらえることもできるだろう。侵出してくる他者と考えるか。あるいは拡散していく自己と考えるか。

  「ぼくはね、母さん。今映画の中にいるんだ。他人の夢の中で撃たれて、
  うっとり死んでいるんだ。」

他者の夢の中で殺されてしまう「私」は、他者に先んじて「私」の夢を他者に仕掛けられるのだろうか。

  「夢見られる前に夢を見るんだ。」

その問いは、夢を食う夢、他者を食う自己、自己を食う他者、現実を食う夢、と、しっぽを食わえた蛇の図像のようなイメージを思わせながら、この戯曲の持つシーンの展開と跳躍力に賭けられる。戯曲から出てくるダイナミズムが舞台を連想させる。ナンセンスとシュールさ、毒気のような異端性と抒情がセリフから吹き出す。そして、この戯曲では、舞台の上の現実も舞台の上で食いつかれてしまう。現実に虚構が覆い被さる。その舞台は客席の現実に鋭く拮抗する。かつてアングラといわれた旗手たちが持っていた客席への侵犯力。特に寺山にあって、これはずっと変わらなかった姿勢だったと思う。彼は現実においても圧倒的に虚構作者なのだ。実体化をはたそうとする虚構の夢。その夢の魅力がほとばしる。

最近、次々に寺山の文庫が再版されている。あの角川文庫の寺山や唐十郎の戯曲のまがまがしかった雰囲気が懐かしい。そういえば、表紙絵が米倉斉加年の夢野久作もあったな。

この戯曲の中のセリフ。寺山という濃い密度とそのままそっくりの欠落を示す。

  「あそこは、永遠の密室、出口さんにとっての世界の果て、そして、あ
  なた方とわたしとの共通の過去でもある、なつかしの四畳半です」

もちろん、あるのは「なつかしさ」だけではない。
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