去年の夏、黄山に行ったとき、まず山水の世界が現実にあることに驚いた。それより以前に、筑紫哲也が「ニュース23」のキャスターだったとき、黄山に行ってからの感想で同様の感慨を語っていた。そういえば、僕が中国で最初に訪れた場所は桂林だった。桂林に行ったときの最初の印象も、これが中国、あの山水画の世界だといったようなものだった。山水画は現実にある世界なのだ。しかし、現実に近寄れる場所ばかりではない。そこを描き続ける山水画には、当然その歴史があり、引き継がれてきた意味が込められている。表現には意匠がある。それを読み解く快感が、ここには、ある。著者は、山水に描きこまれた「行旅」と「漁父」の意味を探る。「なにものにも縛られず、拘泥せずに自然に身を任せて生きる自由な精神ー老荘的な思想が漁父によって示されている」という屈原『楚辞』の「漁父辞」から「漁父」の特別な意味を見いだし、『荘子』、太公望、陶淵明の「桃花源記」などを引きながら、「漁父」の意味づけを行っていく。桃源郷への道を知るもの、あるいは精神の自由人、または生活者の表象。そして、山水世界に描かれる「漁父」の姿を歴史的変遷の中で作品に即しながら読み解いていく。また、「行旅」する旅人が宋代以前と以降によって変化していくことを解読していく。まず、高士と呼ばれる身分の高い教養人が集う園林の絵画がある。そこは仙境であり、理想の余暇に集う。しかし、人物が中心である時代の絵は山水画ではないとされる。以降、人物と景色が逆転していく。五代から宋代にあって、仕事上の旅であり、楽しむものではなかった「行旅」が、旅人を景色を見ているものとして描いていない図像にあると作者は読みとる。そこは「山に入って山を見ず」の状況なのだと言う。そして、山水を楽しむ能力を持つものは、「景色の外にいる観者であり、画中の旅する庶民たちは漁師と同じように自然の一部のように存在している。自然は、ささやかな人の営みを包み込んで、雄大である」となるのだ。景色を「愛でる特権」を持つものは、これらの画を描かせ、眺めることの出来た支配階級やその精神性を共有できた世界の人びとのものだと著者は考える。さらに時代からの言及は続く。宋は北方からのモンゴルの侵入によって南下する。杭州で栄える宋代山水画は「臥遊」という言葉であらわされるように、実際の旅ではなく、「実在の地のすばらしい風景に代わる役割を担う」ものになる。想像の世界になるのである。「八景」や「十二景」が描かれる。それが元代に引き継がれながら、元の支配がはずれた明代になって、「紀遊」に変わる。明代には「具体的な名勝の地に自ら出かけ、その旅の実感から旅人自身である文人たちが山水画を描くことが始まっている」と著者は書く。経済的な発展を背景に旅が楽しみとして可能になったと推察する。黄山ブーム、そしてモンゴル平原や雲南の紀遊図が盛んになっていく。仕事の旅から空想の旅、そして実際の旅への変化と山水画の移り変わりが解読されていき、面白い。山水画は自然を自然としてだけ描かない。そこには人が描き込まれ、詩が書き込まれる。著者は書く。「山水画は、どれも人間とまったく無縁に存在する純粋な自然美だけを描いたものではないことは明らかである。旅人も漁師も、山水画としての世界を成り立たせるために、不可欠の要素であったと考えることができる」と。中国では人工の介在しない自然というのはないのかもしれない。それは、人との関係のない自然は存在しないという考えにもなるだろうし、文字通り人の手を加えても自然は自然なのだという考えにもなるのではないだろうか。たとえば、「金魚」に中国の人工と自然の考えの極端が表れているような気がする。これはオリジナルと二次生産の関係にも繋がるのかもしれない。だが、そんな思いを感じながらも、中国山水画の持つ想像力、それは著者が書く次のような文で、真に創造的なものとなって出現している。「庭園も山水画も、自然を創造的に再現あるいは抽出、凝縮した世界である。自然は訪れるべき、隠れ住むべき世界であり、また同時に仙人たちの住む世界、永遠の世界でもあった。そして、自然はたった一つの石のなかにも現在している。山水画の中には、そのような時空を超えた中国の人々の山水への思いが、画中のモチーフや峰や石そのものの表現を通じて、明確に時にぼんやりと、様々な様相のなかに投影され続けたのである」この本は二部構成であり、一部が「山水画」で二部が「花鳥画」である。今、僕は一部しか読んでいないが、二部の「花鳥画」も楽しみである。今年の夏は、あのオリンピック騒ぎで中国には行かなかったけれど、確かに多くの問題を孕んでいる国だけれど、やはり中国に旅行したいな。
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