散文精神というものがあるとして、それは時間と密接に結びつき、案外、時間への敬意とでもいえるものに貫かれているのではないだろうか。そこには、時間への悔いがあり、憎しみがある。が、同時に、時間への持続し続ける希望がある。このアンビバレンスな感情の先に、むしろ情感だけで時間を瞬間に封じ込めはしない、時間をめぐる思考の、時間から溢れ出す思索の、強靱な意志が漲っている。それが散文精神なのかもしれない。なかでも、小説は、その時間を組み替え、平行し、直立させて、流れと淀みを、連続と断絶を作り出しながら、立体化=空間化するものではないだろうか。
仮借なく責めてくる過去。人はそれを忘却しつくせるのだろうか。仮に、忘却できたとして、それは忘れることでの現在の喪失に結びつかないのか。もちろん、人は今に向けて投企し続ける自己であり続ける。しかし、今ある自己に繋がる自分自身の時間を忘却しつくすことは、実は自らの存在基盤の喪失に繋がるのではないのだろうか。存在忘却は-今よりその時-という以前にすでに始まってしまう。それは、あり得べき明日の喪失へと連結してしまうのかもしれない。もちろん、苛烈な今しかない人生もある。その一瞬には忘却される存在はない。なぜならすでにその一瞬は記憶される鮮烈な「今」なのだから。でも、その一瞬に賭けるより前に、すでに人は人としての時間を生きてしまう。どんな日常でも、人は軌跡を刻む存在なのだ。ただ、そこに記憶の亀裂が刻み込まれている、としたら、これが、想像力の母体なのだ。その根に眠る傷の所在と、その処遇。現代小説は、そこに向き合うことで、現代の小説なのだ。どうやって仮借なき過去を乗り越え、自己の回復にそれを繋げるか。また、いわれなき暴力の介入に対して、僕らはどういう自らであり得るか。これは、アーヴィングなどを連想しながらも、現代の小説が引き受けざるを得ない「状況」なのだ。ただ、この仮借なき過去を乗り越え、恢復し、時間の流れの中で、全体を、自身の全体を、構築し直すことは、自己の再生として可能だろうか。そこに可能を見いだすことは作家の力業なのだと考えられる。小説とは、その構造自体が、こうなのではないだろうか。そう、構築し直す、時をその恢復への道程と考える、など。
大江健三郎は、強く、時間にこだわっていく作家だと思う。彼は、小説をその可能性の側において、人間の知の作業として絶対的に愛しているように感じる。小説への信頼と強い思いが、彼の小説の強度を支えている。
この小説は、大江健三郎の他の小説と同様に、個人的時間と彼が共時的に過ごした時間とが重なり合っていく。その時間は彼自身の過去を経てさらに大きな過去に連なる。それが、今現在の「時代の病」とでもいえるものと交錯する。この交錯点に小説の想像力が跳躍する。発想の起点は「現在」である。それが「現在」から逸脱していく小説の醍醐味。過去は大江健三郎自身の過去の作品とも呼応する。自らの小説を引き合いに出しながら、過去の小説を繰り返す。語り直す。レヴィ・ストロースは『みる きく よむ』という本の中で、「時間においても空間においても、周期性はひとつの役割を果たす。なぜなら反復は、象徴的な表現―それは対象と直観的には一致しながら、決してそれと混じりあうことがない-に本質的なものだからである。象徴によって示される物との関係において、象徴は、その物のなかにある諸要素とは異なる諸要素から構成された集合体であるが、それら異なるふたつの集合体には同じ関係が存在する。そのため象徴が象徴として持続的に成り立つためには、それに加えて、象徴される物との物理的な連関が必要になる。つまり、同じ状況下で、それは規則的に反復されるものでなければならない。」と書いている。反復されることでの象徴の一体化。大江健三郎は繰り返すことで、混淆された「時」を神話化しようとしているようだ。「口説き」という語りで、伝承や出来事を「語り物」にしていく。それが小説なのである。語りの共有空間が場を喪失してしまう活字空間に変わるとき、なお、語りの場を記述し続ける「祝祭空間」への願望。それが、映画化という、シナリオ作成の二次的創作を記述していくこの小説の構造を支えている。ここには、また、大江健三郎の時間意識があるのではないのだろうか。創造は常に創造されてきたものへの敬意である。そこに「時」を繋ぐ普遍の創造力が宿る。『ロリータ』と「アナベル・リイ」が鮮烈な結託を果たす場所、そこに立ち上がる小説の創造力。小説は溢れるような力強さを持っているのだと感じ取ることができる一冊だった。
仮借なく責めてくる過去。人はそれを忘却しつくせるのだろうか。仮に、忘却できたとして、それは忘れることでの現在の喪失に結びつかないのか。もちろん、人は今に向けて投企し続ける自己であり続ける。しかし、今ある自己に繋がる自分自身の時間を忘却しつくすことは、実は自らの存在基盤の喪失に繋がるのではないのだろうか。存在忘却は-今よりその時-という以前にすでに始まってしまう。それは、あり得べき明日の喪失へと連結してしまうのかもしれない。もちろん、苛烈な今しかない人生もある。その一瞬には忘却される存在はない。なぜならすでにその一瞬は記憶される鮮烈な「今」なのだから。でも、その一瞬に賭けるより前に、すでに人は人としての時間を生きてしまう。どんな日常でも、人は軌跡を刻む存在なのだ。ただ、そこに記憶の亀裂が刻み込まれている、としたら、これが、想像力の母体なのだ。その根に眠る傷の所在と、その処遇。現代小説は、そこに向き合うことで、現代の小説なのだ。どうやって仮借なき過去を乗り越え、自己の回復にそれを繋げるか。また、いわれなき暴力の介入に対して、僕らはどういう自らであり得るか。これは、アーヴィングなどを連想しながらも、現代の小説が引き受けざるを得ない「状況」なのだ。ただ、この仮借なき過去を乗り越え、恢復し、時間の流れの中で、全体を、自身の全体を、構築し直すことは、自己の再生として可能だろうか。そこに可能を見いだすことは作家の力業なのだと考えられる。小説とは、その構造自体が、こうなのではないだろうか。そう、構築し直す、時をその恢復への道程と考える、など。
大江健三郎は、強く、時間にこだわっていく作家だと思う。彼は、小説をその可能性の側において、人間の知の作業として絶対的に愛しているように感じる。小説への信頼と強い思いが、彼の小説の強度を支えている。
この小説は、大江健三郎の他の小説と同様に、個人的時間と彼が共時的に過ごした時間とが重なり合っていく。その時間は彼自身の過去を経てさらに大きな過去に連なる。それが、今現在の「時代の病」とでもいえるものと交錯する。この交錯点に小説の想像力が跳躍する。発想の起点は「現在」である。それが「現在」から逸脱していく小説の醍醐味。過去は大江健三郎自身の過去の作品とも呼応する。自らの小説を引き合いに出しながら、過去の小説を繰り返す。語り直す。レヴィ・ストロースは『みる きく よむ』という本の中で、「時間においても空間においても、周期性はひとつの役割を果たす。なぜなら反復は、象徴的な表現―それは対象と直観的には一致しながら、決してそれと混じりあうことがない-に本質的なものだからである。象徴によって示される物との関係において、象徴は、その物のなかにある諸要素とは異なる諸要素から構成された集合体であるが、それら異なるふたつの集合体には同じ関係が存在する。そのため象徴が象徴として持続的に成り立つためには、それに加えて、象徴される物との物理的な連関が必要になる。つまり、同じ状況下で、それは規則的に反復されるものでなければならない。」と書いている。反復されることでの象徴の一体化。大江健三郎は繰り返すことで、混淆された「時」を神話化しようとしているようだ。「口説き」という語りで、伝承や出来事を「語り物」にしていく。それが小説なのである。語りの共有空間が場を喪失してしまう活字空間に変わるとき、なお、語りの場を記述し続ける「祝祭空間」への願望。それが、映画化という、シナリオ作成の二次的創作を記述していくこの小説の構造を支えている。ここには、また、大江健三郎の時間意識があるのではないのだろうか。創造は常に創造されてきたものへの敬意である。そこに「時」を繋ぐ普遍の創造力が宿る。『ロリータ』と「アナベル・リイ」が鮮烈な結託を果たす場所、そこに立ち上がる小説の創造力。小説は溢れるような力強さを持っているのだと感じ取ることができる一冊だった。
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