パオと高床

あこがれの移動と定住

伊藤比呂美とハン・ソンレ

2009-03-03 14:34:59 | 雑感
福岡市の都久志会館で3月1日(日)に「海彼往来-言葉が日常を超える瞬間(とき)」という標題のトーク・セッションが開催された。アメリカと日本を往来する伊藤比呂美と韓国の詩を日本語に訳して紹介し、また日本の小説を韓国語に訳して、出版する詩人のハン・ソンレ。この二人の話は二時間を超える時間を感じさせないものだった。

途中、それぞれの朗読が入った。伊藤比呂美の朗読は、おそらくこんな速度で読むのだろうと思った通りの速度感がある朗読だった。ただ、思ったほど、感情の抑揚をつけない。むしろ、声を声として低音部、中音部、高音部と使い分け、詩の速度=時間に空間的な立体性を付け加えていた。繰り返される言葉が聞き手の心に溜まっていくような感じがあり、むしろ過剰さとは切り離されたバランスのよさが伊藤比呂美の言葉を脳の中でも理解できるものにしていた。そして、そこに彼女の声のころがりが加わると、言葉が実体化され、意味に囚われない聞き手の感覚的な部分に働きかけてくるのだ。これは心地よい。粘着性からは遠く、むしろ知的なものが感情感覚の部分に降りてくる現場のような気がした。

一方のハン・ソンレは日本語と韓国語で朗読をした。日本語の朗読は、どこか自身との距離を感じさせる朗読で、今、彼女は日本語を読みながら、韓国の言葉で情感が満ちてきているのではないかと思わせるものがあった。そして、韓国語の朗読。これは意味が判別されないのに、音が入ってくる。韓国語の表音性の力というのだろうか、子音の残す、残音感とでもいえるような音の切れ。ラ音の繋がり、小さな「ツ」のわずかな音の断裂からリエゾンするかのような音の流れへの移り変わり。言葉は音を持っていると改めて気づかされたし、詩には作者の呼吸、息づかいが宿っていて、それが空間を占めていく、その方法がさまざまあるのだと思った。ハン・ソンレの朗読は水が満ちてくるような、そして引いていくような朗読だった。

トークで興味深かったのは、やはり「恨」をめぐる話。「恨」については以前、小倉紀藏が書いている本を読んで、相手への恨みではなく、在るべき自分の姿と現在の自分の姿から来る距離への悔いやそれから起こる様々な自らの囚われる状況、感情を言い、それからの解放を願いながら、その距離自体の中に思索と美学が存在するものだというように、勝手に理解していた。価値であり乗り越えるべき対象。「恨」は情緒ではなく、もっと根本的なものなのだ。そこのところをハン・ソンレは自身の言葉で語ろうと文字化してきていた。これは、例えば、外部の者がその対象として言及思索していくのとは違い、ハン・ソンレにしてみれば、自らの創作の基底を探る作業でもあり、民族の価値共同性をめぐる根本を言語化する作業である。言葉化の困難を引き受けて、学習してきたと言いながら文字を追って語るハン・ソンレの姿勢、態度。そこに、「恨」を引き受け、あり得べき自身の今、その場での役割を果たそうとして、「恨」を残さずに終えようと果敢に語る姿に、語られている内容が形となって現れていた。
では、日本では何がそれにあたるか。「もののあはれ」ではないかと座談会は進んでいった。
伊藤比呂美は、それを受けて、「無常」を言う。どきっとしたのは、丁度数日前に読んだ、唐木順三をめぐる粕谷一希の『反時代的思索者』という本の中に、「ただ、無常とは〈はかなし〉といふ心理の上にあるのでもなく、無常感といふ情緒の上にあるのでもない。反って無常は自他をふくめての事実、根本的事実である。また若し範疇という言葉をもちだすならば、「無常は事実であるとともに、唯一の範疇、根本的範疇である」という唐木順三の言葉の方が、断乎として明晰である。あるいは唐木順三の方が、主体的構築的である。」と、「無常」について書かれた文章があって、そこにかぶさってきたからだ。「もののあはれ」も美学的基準である。それは根本的なものである。さらに「無常」は、これは、もちろん「恨」とは違うが、同じような位置、範疇を示した根底なのではないだろうか。
伊藤比呂美はジャンルとしての「現代詩」の行き詰まりと、そこからの距離の置き方を語っていた。「現代詩」というジャンルにとらわれない「詩」。彼女は、人間の心の基調の部分に生活を突き抜けながら触れることで、詩が癒しや元気をもたらすものとして、私を語る私から、あなたを語る私になれるものだと考えているようだ。そして、説教節などに表現の力を感じ取っている。
外国暮らしで英語が、私の日本語を浸食してしまう苦しさがあったと語る伊藤比呂美は、母語に、母語を語る詩人である自らに、言葉の持つ力の実感を持っているのだ。言葉の層が見えるという森鴎外の文章への話もあった。鴎外の文章には、漢語由来の伝統と明治以降の日本語、言文一致で獲得していった日本語、そして、ドイツ留学などで身につけた西洋語が地層のように重なって見えると彼女は語る。漱石もそうだと僕は思う。漢語と江戸弁と口語体と英語由来語の層。ただ、伊藤比呂美にとっては語りの点からは森鴎外なのだろうか。これも、丁度、前述の唐木順三をめぐる本で鴎外の歴史物への言及があり、前日鴎外の歴史物の文庫本を再読しようと買ってきたばかりなので、なんだか妙に、話に納得してしまった。

やはり、伊藤比呂美という人は前衛を走っていると思う。ただ、表層ではなく、頭でっかちな何者をもぶっとばすだけの生活の持つエネルギーとどこか前衛が普遍と手を携えていきそうなランデヴーの快感を溢れさせている。

日韓共催のワールドカップのときに、韓国の応援の拍手のリズム「パ・パン・パン・パン」を聞いて、これは凄い。「日本ちゃちゃちゃ」とは根っこが違うぞと思ったが、ハン・ソンレは「恨」をめぐる話をこの手拍子の力から始めていた。

それにしても、韓国の詩事情を聞くたびに、詩を大切にする国なのだと思う。詩の流れ、現代詩の状況について滔々と溢れるように語るハン・ソンレ。日本は詩をなくしたのだろうか。そうは思わない。ただ、難解や平易だけの問題ではないないものが横たわっているような気がする。

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