パオと高床

あこがれの移動と定住

辺見庸『眼の海』(毎日新聞社)

2012-05-01 10:03:15 | 詩・戯曲その他
詩集は、Ⅰが「眼の海」、Ⅱが「フィズィマリウラ」という二部構成である。
冒頭の詩「水のなかから水のなかへ」は、こう書き出される。

 半世紀まえ
 眼にまつわったひとつぶの予感の涙から
 海がうるんで浮かんだ
 海は暗い底にびっしりと声たちをしずめていた
 声たちはそれぞれ整うたことばではなく
 未生のことばであった
 海の底 おちこちに声はあり
 涙のかなたで
 槐の葉叢のように声はしげった

過去の時間のなかで、沈み潜った言葉の群れが、密かに未来へと語りかけていく、その途上で、言葉は断絶する。

 過去は水中に浸り
 叫ぶ声たちを介し
 未来とゆらゆらひきあった
 涙のかなたの予感の海で
 槐の葉叢のように死者はしげった
 水のなかから水のなかへ
 水のなかから水のなかへ
 声たちはうるんで谺した
 半世紀まえ
 声たちの谺はことばをもとめてふるえた
 涙のかなたの予感の海で
 槐の葉叢のように谺はしげった
 水のなかから水のなかへ
 水のなかから水のなかへ
 断たれた死者は断たれたことばとして
 ちらばり ゆらゆら泳いだ
 首も手も足も 舫いあうこともなく
 てんでにただよって
 ことばではなくただ藻としてよりそい
 槐の葉叢のように
 ことばなき部位たちが海の底にしげった
 水のなかから水のなかへ
 水のなかから水のなかへ
 眼にまつわったひとつぶの涙のむこうで
 青い死者の群れは
 鬱蒼としげった
          (「水のなかから水のなかへ」一部略)

しかし、その断絶した言葉、海に沈んだ言葉を辺見庸は手繰り寄せようとする。彼は、まず、見えない者を、見ようとされない者をまなざす。そして、断絶した、失墜した言葉を築きあげようとするのだ。それは「眼」の海でありながら、実は、聞くことなのだ。水のなかの声を聞くこと、時の中の声を聞くことなのだ。だが、聞くことは語ることである。沈黙に耳を澄ます。そこから聞き取るためには語らなければならない。聞こえてくるのは、自身の声である。自身の声を聞きとりながら、死者の声を聞く。歴史の声を聞く。そして、時代の声を聞く。それは声高に語られる報道の声ではない。政治の声ではない。徹底的に個人の声である。何ものかによってしつらえられたものではない、個人の声を模索する。

 わたしはずっと暮れていくだろう
 繋辞のない
 切れた数珠のような
 きたるべきことばを
 ぽろぽろともちい
 わたしの死者たちが棲まう
 あなた 眼のおくの海にむかって
 とぎれなく
 終わっていくだろう
          (「眼のおくの海-きたるべきことば」最終部分)

 こうして水中都市はできた
 友らはとことわの底から
 ときおり
 たまゆらの水面をぼんやりみあげている
          (「こうして水中都市はできた」最終部分)

鎮魂を辞書の意味通り、死者の魂をなぐさめ、しずめることと捉えれば、そんな鎮魂自体を辺見は拒絶している。だが、死者をまなざし、彼らの生と彼らを生かし、また死なしめた一切を捉えようと格闘しながら、私たちの現在を問い。表現する言葉にこもる精神が、鎮まらぬ魂に向き合い、魂を抱えこもうとする意味での、激烈な鎮魂が、ここにはある。そして、鎮魂を、崩れた言葉の構築と重ねていくところに詩が滲みだしている。これらの詩群を支えているものは、悼みとしての鎮魂ではないのだ。生から死に移る距離への冷静な視線、死者の存在への幻視、圧倒的な自然の力と人間の力への判断、さらに状況として常にある現代の危機への認識が、辺見庸の生きてきた時間の記憶と相乗されて、詩に強度をもたらしている。その強度が詩を支えているのだ。死者を死者として生かしめる言葉。生者が都合によって絡め取らない死者の言葉。むしろ、それは生者へと迫真する言葉であるのだ。
だから、彼はこう書くことができる。
数ではない、ただ群衆ではない個人への思いをこう刻み込む込むことができる。

 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに
 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
 百年かけて
 海とその影から掬え
 砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
 水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
 石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
 夜ふけの浜辺にあおむいて
 わたしの死者よ
 どうかひとりでうたえ
 浜菊はまだ咲くな
 畔唐黍はまだ悼むな
 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけのふさわしいことばが
 あてがわれるまで
          (「死者にことばをあてがえ」全篇)

と同時に、表題詩「眼の海」も書きうるのである。

 無のはたえの
 眼のうら
 びょーびょー
 風吹いた
 雪片よこざま
 飛んだ
 花吹雪
 眼のおく
 水銀の天穹
 死の舞いをさいごまで舞っていた
 カモメついに息たえて
 波間におちた
 眼のおくのおく
 弓なりの空隙
 とぎれなく
 横に一線
 縫い目のような
 死んだカモメ、トビ、カラス、シギ、サギ
 死んだアホウドリ、カツオドリ、ネッタイチョウ
 ぷかぷか浮かんで
 待っていた
 これ 終わりの海の儀礼
 これ はじまりの水の奔騰狂癲
          (「眼の海」全篇)

死者の眼になろうとしている。しかも、もうひとつ大きな視線も感じられる。
Ⅰの「眼の海」が27篇。Ⅱの「フィズィマリウラ」は24篇で、初出一覧を見ると、Ⅱは全篇書き下ろしとなっている。
「フィズィマリウラ」とは、詩「みぎわを暮れがた音もなくすべっていくもの」に拠ると、

 きまったなまえはなかった。
 「フィズィマリウラ」と呼ぶものがいたが
 一般に「あれ」とのみいわれた。
        (「みぎわを暮れがた音もなくすべっていくもの」一部)

というもので、「いわれた数だけそれぞれの形があって」、「さだまったそれだけの形は」ないものである。うわさがうわさを呼ぶ。そして、「語ろうとして語りえないもの」なのだ。ただ、

 それでも、
 みぎわを暮れがたに
 音もなくすべっていくふたしかなものは、あった。
      (「みぎわを暮れがた音もなくすべっていくもの」最終部分)

となる。それに導かれるように、その世界の実相がそれであるように感じながら、僕らは、言葉を、つまりは世界を、生きていく。Ⅱ部の詩篇には、その破滅的光景と可能性が込められているように感じた。Ⅱ部の詩篇で、さまざまな時代、さまざまな空間の災厄が、今、僕たちが生きている世界の危うさに吸引される。

 ―アマンに雪はふらない
 その存在比を自然のそれよりも
 ずいぶん高くしてみることを
 ちょいとおもいついたとき つとに
 時制はかき消え
 フィズィマリウラの誕生が
 アマンのコビトの預言者たちにより
 くりかえし預言された

 フィズィマリウラは結果でも
 過誤でもなく
 つきるところ
 とりとめのない本然であり
 幻影ではなく
 おそらくこれがわたしらの
 現在の真景である

 その存在比が高められるとともに
 わたしらは ついで
 みずからの影と
 夜とをうしない
 意味の芯をひきぬいた
 そして思念なき海盤車のように
 価値なき海を泳ぐともなく泳いでいる

 世界にはもう現在がない
 世界にはもはや思惟する主体はない
 世界はなにも包摂しない
 世界はなにも内包せず
 なにものにも包摂されていない
 主体はもうない
 ことばは徒労の管足系として
 無為全般を司る
 世界はしたがって ない

 海盤車は在る
 世界は ない
 刺細胞は在る だが
 弁証法は消えた
 海盤車には終わりがある
 刺細胞も死ぬだろう
 世界は だが 永遠に完了しえない

 ヒトはまだ在る
 現存するヒトとは
 疾病の諸現象の謂いである
 終宿主もヒトである
 ヒトという現象は だが
 もう少しで終わる
 痕跡はのこらない
 フィズィマリウラが
 癒しの秘跡を
 しきるかもしれない

 アマンのコビトの預言者たちは
 いま預言している
 ―アマンに雪が降る と
           
         注 アマン エチオピアのとても小さな村
          (「フィズィマリウラ」全篇)

この世界の暴力的な滅亡のイメージの中で、その壊滅の先にさらに奇跡への隘路はあるのかもしれない。そう、エチオピアのちいさな村、「アマンに雪が降る」ように。あるいは、同時に、たぐり寄せ、包摂できない未来の像が、そこにはあるのかもしれない。そう、「アマンに雪が降る」ような。
コメント (1)
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