帰還にかける思いとは何だろう。
奪われた帰路がある。そこでは、帰ることへの強い思いが宙づりにされている。
だが、帰路は、断念の導く結論でもあるのだ。または、断念自体が帰路につくのかもしれない。それは、地理的故郷へであるかもしれないし、精神の帰郷かもしれない。その道筋は、ある者の帰郷のあとを辿る自分自身の帰還の道筋となる場合もある。
よく旅をするんだってね、帰ってきたらいつでもここにおいでよ。
お帰りなさいと言って私が迎えてあげる。
(「その日のアルチュール」)
迎える者はこう語る。だが、戻る者は、帰路の前にあって自分自身を抱きしめる。
何かから逃げるためにさすらうのか、それとも何かを求めて未知の街
へ足を踏み入れるのか。何もない。虚しいだけだ。悲しみはもう思い
出さない。悲しみが浮かんでこようとすると、それはいきなり彼(ラ
ンボー)を打ち倒さんばかりの頭痛になって襲ってくるのだ。
(「その日のアルチュール」)
帰路をたどる帰路になる。しかし、それは、常に同じ場所へではない。ずれながら回帰する。何故か。同一の地点などないからである。また、同一性には回帰できないからである。ジル・ドゥルーズは『ニーチェ』の中でこう書いている。「〈同一なもの〉は回帰しない、ただ回帰することのみが、生成しているものの〈同一なこと〉なのである」と。ものではない、ことなのだ。さらに、事態は回帰することであって回帰するものではない。帰路をたどろうとする自らは決して自らとの同一性を保証されることはない。それは同時に他者への回帰を図ろうとする場合にもそうである。作者の井本さんは決して自身の過去に同一化できない、それはランボーの過去に同一化できないことと同様であり、それはまた、ランボーがランボーの過去に同一化できないこととも同様である。
つまり、歴史的記載は変更される。アルチュールにとっての「その日」は、ずらされる。ずらす手法が、井本さんにとっては小説化だったのだ。そうすることでしか、ランボーには辿り着けない。つまりは自分自身へも辿り着けない。そこに小説が生まれる。
そして、ランボーの夢の残滓に、作者は夢の形象を見いだそうとするのだ。作者の耳元には囁く声が聞こえる、「ランボーは生きている。ランボーは死んではいない。ランボーは夢の残滓に溺れながら、おめおめ生きなければならない」と。
そして、四つの小説が生みだされた。ランボーを、作者自身のランボーを、生かすために殺さなければならないとして。解放するために小説の中に閉じこめるように。それは、作者が作者自身を生かすために小説の中に封じようとした行為だったのかもしれない。
創意溢れる小説は、時に散文詩のような文体で書かれている。4つの小説は独立しているようで、絡み合っている。各作品には「一」から「四」までのノンブルが打たれているのだ。
冒頭は、ランボーの足跡を追ってシャルルビルに行き、さらに「地獄の季節」を書いたロッシュ村を訪れる「僕」を描いた「ロッシュ村幻影」。この小説では、ランボーが宮沢賢治と対話するという「幻影」が書き込まれる。「僕」は限りなく作者に近い位置にいる。全体のプロローグのような配置である。
次の「その日のアルチュール」では、1880年のアデンへの旅立ちを起点にして、その旅立ちの前に過去を回顧するランボーを描く。詩が溢れる日々。だが、その中でむしろ拘束され、失意にさいなまれ、「見者」の不幸を生きるランボーが現れる。この小説の最大の「幻影」は、コミューンの中で現れる父の幻影である。小説は時間を遡行する手法で描きだされる。過ぎてしまう過去の仮借なさに抗いながら、精神が肉体共々、拘束を解き放とうとする姿を、作者は痛みを伴って表現する。なぜか、すでにそこに結論が置かれているからである。昔の映画の題名ではないが「あらかじめ失われた」ものへの思いが、今なおある「私」の中に充溢しているからである。
そして、三つ目の「ヴォンク駅から」。1891年、死を前にしたランボーが描かれる。アフリカからの帰国の時が幻想される。ここでの「幻影」はランボーその人である。作者は伝奇作家の面持ちで、ランボーを史実通りには殺さない。人はその人の過去を生きられないように、人はまた他人の過去を生きられない。だが、むしろそのことは、歴史的事実とされたものからのずれや逸脱を可能にする。想像力はそこに賭けられる。83歳まで生きたランボーを幻想する。そして、アフリカでのランボーを想像する。詩の先にあった単調な日々を、その日々が何であったのかを、それは死によって生まれた時間だったのかを、問いながら想像する。作者自身が「あとがき」で書いているように「ハラルでの十一年間の闇、そこから発せられた数多くの手紙こそ、文学の最高峰のひとつである、と僕は思う」ということを、創作を通して検証するように、作者は想像する。これは、作者にとっての実業の日々と重なる思いがあるのかもしれない。
そして、四つ目の「エピローグ」となる。一つ目の小説では作者に近かった「僕」は、ここでは装置としての「僕」として虚構の時間を生きている。この「エピローグ」の僕が「その日のアルチュール」と「ヴォンク駅から」を書いたと設定されるのだ。そして、「僕」はエチオピアのハラルに行く。すでに死んだランボーは、ハラルに棲む「曾お祖父さん」という「幻影」として現れる。この「僕」が追うランボー。作者は「僕」を追いながら「ランボー」を追う。距離のからくりがこの小説には宿っている。虚構が虚構を欲するという、極めて自然な連鎖が、この「エピローグ」を生みだしている。それは現実の時間に対峙する想像力の生みだす夢の時間なのだ。
僕らは重なるような夢の襞の中で生きている。それは彼が見た夢でもあり、僕が見た夢でもあるのだ。そして、決して出会うことのない僕にとっての「あなた」の夢でもあるのだろう。
過去の時間の中に置き去りにしてきた忘却の時が、辿り着けない帰還の道を敷設していく。
そこには記述された言葉の軌跡が刻まれている。
詩を書くのをやめて八年、二十七歳からのランボーの人生のイメー
ジが激しく僕を打ちのめすようになったのは何時の頃からだったろう。
紺碧の空と海の間にきらめく大理石の石切り場。すべてを枯渇させる
灼熱の太陽と砂漠の無味乾燥。瞬時に蒸発する水分。あるいは蒸し暑
い澱んだ空気の中に浮遊する糞尿の匂う住まい。裏切り者から与えら
れる屈辱。未開の地、ハラル。なぜ彼はそこで生きるのか。生きねば
ならないのか。僕には何故かそれが分かるのだ。僕は彼がいとおしい。
痩せこけて日焼けした狡猾な眼の男。苦悶と苦痛のうちに泣きながら
死んでいく男。僕は彼の悲しみを美しいと思いそれを愛する。そして、
百年経った後、想像の中でしか彼を愛せない自分が悔しい。
(「ロッシュ村幻影」から)
絶対感覚を抹消するためにだ。それは解放されることだ。灼熱の太
陽と熱風とでそれらを焼切ることだ。純白の雪の奥深くに凍結させる
ことだ。ついに彼の解放はすべての感覚を抹殺することだと結論づけ
られる。肉体を酷使することだ。もはや言葉は必要ない。一体の肉体
として生きる事だ。定住し沈黙のうちに滅びていくことだ。ハラルの
日々を送ることだ。
(「エピローグ」から)
奪われた帰路がある。そこでは、帰ることへの強い思いが宙づりにされている。
だが、帰路は、断念の導く結論でもあるのだ。または、断念自体が帰路につくのかもしれない。それは、地理的故郷へであるかもしれないし、精神の帰郷かもしれない。その道筋は、ある者の帰郷のあとを辿る自分自身の帰還の道筋となる場合もある。
よく旅をするんだってね、帰ってきたらいつでもここにおいでよ。
お帰りなさいと言って私が迎えてあげる。
(「その日のアルチュール」)
迎える者はこう語る。だが、戻る者は、帰路の前にあって自分自身を抱きしめる。
何かから逃げるためにさすらうのか、それとも何かを求めて未知の街
へ足を踏み入れるのか。何もない。虚しいだけだ。悲しみはもう思い
出さない。悲しみが浮かんでこようとすると、それはいきなり彼(ラ
ンボー)を打ち倒さんばかりの頭痛になって襲ってくるのだ。
(「その日のアルチュール」)
帰路をたどる帰路になる。しかし、それは、常に同じ場所へではない。ずれながら回帰する。何故か。同一の地点などないからである。また、同一性には回帰できないからである。ジル・ドゥルーズは『ニーチェ』の中でこう書いている。「〈同一なもの〉は回帰しない、ただ回帰することのみが、生成しているものの〈同一なこと〉なのである」と。ものではない、ことなのだ。さらに、事態は回帰することであって回帰するものではない。帰路をたどろうとする自らは決して自らとの同一性を保証されることはない。それは同時に他者への回帰を図ろうとする場合にもそうである。作者の井本さんは決して自身の過去に同一化できない、それはランボーの過去に同一化できないことと同様であり、それはまた、ランボーがランボーの過去に同一化できないこととも同様である。
つまり、歴史的記載は変更される。アルチュールにとっての「その日」は、ずらされる。ずらす手法が、井本さんにとっては小説化だったのだ。そうすることでしか、ランボーには辿り着けない。つまりは自分自身へも辿り着けない。そこに小説が生まれる。
そして、ランボーの夢の残滓に、作者は夢の形象を見いだそうとするのだ。作者の耳元には囁く声が聞こえる、「ランボーは生きている。ランボーは死んではいない。ランボーは夢の残滓に溺れながら、おめおめ生きなければならない」と。
そして、四つの小説が生みだされた。ランボーを、作者自身のランボーを、生かすために殺さなければならないとして。解放するために小説の中に閉じこめるように。それは、作者が作者自身を生かすために小説の中に封じようとした行為だったのかもしれない。
創意溢れる小説は、時に散文詩のような文体で書かれている。4つの小説は独立しているようで、絡み合っている。各作品には「一」から「四」までのノンブルが打たれているのだ。
冒頭は、ランボーの足跡を追ってシャルルビルに行き、さらに「地獄の季節」を書いたロッシュ村を訪れる「僕」を描いた「ロッシュ村幻影」。この小説では、ランボーが宮沢賢治と対話するという「幻影」が書き込まれる。「僕」は限りなく作者に近い位置にいる。全体のプロローグのような配置である。
次の「その日のアルチュール」では、1880年のアデンへの旅立ちを起点にして、その旅立ちの前に過去を回顧するランボーを描く。詩が溢れる日々。だが、その中でむしろ拘束され、失意にさいなまれ、「見者」の不幸を生きるランボーが現れる。この小説の最大の「幻影」は、コミューンの中で現れる父の幻影である。小説は時間を遡行する手法で描きだされる。過ぎてしまう過去の仮借なさに抗いながら、精神が肉体共々、拘束を解き放とうとする姿を、作者は痛みを伴って表現する。なぜか、すでにそこに結論が置かれているからである。昔の映画の題名ではないが「あらかじめ失われた」ものへの思いが、今なおある「私」の中に充溢しているからである。
そして、三つ目の「ヴォンク駅から」。1891年、死を前にしたランボーが描かれる。アフリカからの帰国の時が幻想される。ここでの「幻影」はランボーその人である。作者は伝奇作家の面持ちで、ランボーを史実通りには殺さない。人はその人の過去を生きられないように、人はまた他人の過去を生きられない。だが、むしろそのことは、歴史的事実とされたものからのずれや逸脱を可能にする。想像力はそこに賭けられる。83歳まで生きたランボーを幻想する。そして、アフリカでのランボーを想像する。詩の先にあった単調な日々を、その日々が何であったのかを、それは死によって生まれた時間だったのかを、問いながら想像する。作者自身が「あとがき」で書いているように「ハラルでの十一年間の闇、そこから発せられた数多くの手紙こそ、文学の最高峰のひとつである、と僕は思う」ということを、創作を通して検証するように、作者は想像する。これは、作者にとっての実業の日々と重なる思いがあるのかもしれない。
そして、四つ目の「エピローグ」となる。一つ目の小説では作者に近かった「僕」は、ここでは装置としての「僕」として虚構の時間を生きている。この「エピローグ」の僕が「その日のアルチュール」と「ヴォンク駅から」を書いたと設定されるのだ。そして、「僕」はエチオピアのハラルに行く。すでに死んだランボーは、ハラルに棲む「曾お祖父さん」という「幻影」として現れる。この「僕」が追うランボー。作者は「僕」を追いながら「ランボー」を追う。距離のからくりがこの小説には宿っている。虚構が虚構を欲するという、極めて自然な連鎖が、この「エピローグ」を生みだしている。それは現実の時間に対峙する想像力の生みだす夢の時間なのだ。
僕らは重なるような夢の襞の中で生きている。それは彼が見た夢でもあり、僕が見た夢でもあるのだ。そして、決して出会うことのない僕にとっての「あなた」の夢でもあるのだろう。
過去の時間の中に置き去りにしてきた忘却の時が、辿り着けない帰還の道を敷設していく。
そこには記述された言葉の軌跡が刻まれている。
詩を書くのをやめて八年、二十七歳からのランボーの人生のイメー
ジが激しく僕を打ちのめすようになったのは何時の頃からだったろう。
紺碧の空と海の間にきらめく大理石の石切り場。すべてを枯渇させる
灼熱の太陽と砂漠の無味乾燥。瞬時に蒸発する水分。あるいは蒸し暑
い澱んだ空気の中に浮遊する糞尿の匂う住まい。裏切り者から与えら
れる屈辱。未開の地、ハラル。なぜ彼はそこで生きるのか。生きねば
ならないのか。僕には何故かそれが分かるのだ。僕は彼がいとおしい。
痩せこけて日焼けした狡猾な眼の男。苦悶と苦痛のうちに泣きながら
死んでいく男。僕は彼の悲しみを美しいと思いそれを愛する。そして、
百年経った後、想像の中でしか彼を愛せない自分が悔しい。
(「ロッシュ村幻影」から)
絶対感覚を抹消するためにだ。それは解放されることだ。灼熱の太
陽と熱風とでそれらを焼切ることだ。純白の雪の奥深くに凍結させる
ことだ。ついに彼の解放はすべての感覚を抹殺することだと結論づけ
られる。肉体を酷使することだ。もはや言葉は必要ない。一体の肉体
として生きる事だ。定住し沈黙のうちに滅びていくことだ。ハラルの
日々を送ることだ。
(「エピローグ」から)