パオと高床

あこがれの移動と定住

津村記久子「ポトスライムの舟」(文藝春秋3月号)

2009-02-27 10:51:45 | 国内・小説
あっ、こういう小説がでてきたのだという感想。

どこか希薄になって、存在の実感から離れていった状況を描く時代があって、身体感の喪失をめぐるベクトルの放射に、様々な意匠がつくされてきた、すでにちょっと古い言い方の「ポストモダン」。そこからの、存在忘却からの、帰還をはたしていた流れの過程に、時代の風が吹き、また、存在は揺らされてしまう、その希薄さに向けて。ただし、ここではすでに、身体は激しい痛みや葛藤や拮抗を、あらかじめ失われてしまっている。価値獲得の、自己実現への戦いは、血みどろさや痛々しさを内に封じ込め、遠ざけられている。そこでは同時に、様々な夢も封印されてしまう。そして、表れてきたものは、執拗な心情吐露や内面的葛藤、心理描写や、欲望の強いベクトルを欠いた、叙事的叙述に過不足なく時代の空気を乗せ、それでいて柔らかみのようなオブラートでくるんだ小説だった。

労働の中での自己実現はあらかじめ排除されている。労働と対価は釣り合っていないし、それでも、対価があることが、すでに主人公を支えている。そこでは、労働の中に自己実現をはかるための戦いや労働の条件をめぐる戦いは、もはやない。労働によって疎外されている自己はあるが、同時に労働からも疎外されそうな危機的自己もある。労働を時給で換算するだけではなく、生活消費を時給計算し、労働時間何時間分なのかを換算してしまう。状況はここまで退行している。そして、主人公は一年分の収入にあたる世界一周旅行に、自己実現を賭けてみるのだ。
その決意をする、パーツを奪われた自転車での事故。あざといが、部品を奪われた自転車が比喩となっている。自転車を操れなくなり、死ぬかもしれないという思いが、お金を貯めて世界一種旅行に参加しようという主人公の心のスイッチを押す。その事故から、世界一周旅行にいけるだけのお金を貯めたラストの自転車をこぐまでの物語である。ラスト、軽快に自転車をこぎながら主人公は思う、「これだけ自分の体が動くという感覚を思い出したのは、おそらく数年ぶりのことだった」と。
途中、友人との共同生活や友人のためにお金を使い、貯金が滞りそうな危機も起こる。しかし、そこでは、頼られる自己や意味を見出された自己が優先される。

恋愛や暴力や犯罪を一切書かずに、逆に、それに関わってはいられないのよ、私たちのささやかな生活はとでもいいたいような、姿勢。そう、ここからでも小説になるのだ。しかも、ほのぼのやフワリとも違って、さらに切なさややるせなさとも乖離した、労働と生活を描き出そうとしている小説。で、ありながら悲惨の露出も避けた、そんな小説の場所が、ここにはある。このポトスライムのようなしたたかさを、物足りなさと感じるかどうかは、読者に委ねられるのかもしれない。
既婚者はひらがな、漢字で、そうでない人物はカタカナ表記になっているのかな。子どもの名前はオール漢字で、これから、かな文字が生まれるのかも。

いれずみの挿話や恵奈という友人の子どもとの会話などに先行する他の作家の小説に対するスタンスの違いが含まれているような気がした。
関西語圏が、いま強いのかな。方言の時代がくるような・・・。

コメント
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