パオと高床

あこがれの移動と定住

種村李弘『土方巽の方へ肉体の60年代』(河出書房新社)

2009-01-31 06:14:00 | 国内・エッセイ・評論
突然、種村李弘の文章が読みたくなってぱらぱらとめくってみる。そう、この人とこの人の盟友澁澤龍彦の文章は突然読みたくなる。暗黒舞踏の土方巽をめぐる文章の数々。どの一行にも、土方への愛情が溢れている。 それは、まるで見たことのないダンスだった。ここから手や足が出ると見  当をつけたところからは手や足は出ない。一本の指が伸びていく先はここ らだろうと思うと、そこには行きつかない。空間の連続性は刻々に破砕さ れ、ズラされ、はぐらかされ、肉体はいたるところでむごたらしく脱臼  し、切り刻まれ、みるみるうちに無数の断片として漂いながら、そこから  ある名づけようのないもの、もう一つの肉体(ドウブル)、あるいはすべ  ての観念をそぎ落とされた純粋な肉体が、たえまのない生成のうちに生成 そのものとして姿をあらわす。 「笑って逃げる風今いる土方巽へ」そして、種村の感性を知性と感覚が紡ぎ出していく文体。そこに60年代から70年代への時代の熱気のようなものが加わる。 凶兆をはらんだ暗黒の空の下をなまめいた女の薄物をひるがえしながら、 狂気のヘルマフロディトスが魔のように疾走する。風景は卵形にたわみ、 中心に穢された白い肉体が胎児の姿勢で跼蹐したまま大地母神の陵辱に おののいている。 「肉体の氾濫土方巽と『鎌鼬』」スタイルを持ちながら、自身の批評対象を誠実に偏愛する。知性は知性として明部と暗部をどちらもの明度で綴りだしていく。それを魅力的にする感性の鋭さと遊戯的自在さ。唐十郎との対談や文章もいい。肉体からもたらされる身体性の時代が、70年代に入って変貌していく過渡的な氾濫が感じられる。
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