goo blog サービス終了のお知らせ 

パオと高床

あこがれの移動と定住

パク・ソンウォン(朴晟源)『都市は何によってできているのか』吉川凪訳(クオン)

2013-11-21 13:11:50 | 海外・小説
クオン社の「新しい韓国の文学」の中の一冊。
八つの短編から成っている。それぞれの短編は独立して発表されたと紹介されているが、連作のような絡まりがある。
特に「キャンピングカーに乗ってウランバートルまで」という題名の2編と「都市は何によってできているのか」の2編はそれぞれの2編が連作であるだけではなく、4編で交錯する。
と、ここまで書いて、あっ、作者は都市の神話を描きだしたいのだと思う。登場人物同士が被っている場合もある。また、同じフレーズが他の小説でも登場し、これはもしかしたら、同じ人物なのかもしれないと思わせる。それから、象徴的に使われる台風という設定。これも時間が重なっているのではと連想させる。交錯する時間と人物のかすかな接点、それが生み出す同時性の中での多層性、これは神話への企図だと思うことができる。だが、その神話、なんとも孤独な空気が漂う。

それにしても、ボクらは都市の中で迷ってしまっている。特に、自分探しの濃密なテーマを持つ韓国小説は、その迷いに直接関わってくるように思う。ボクらはどうやってウランバートルに辿り着けるのだろうか。といっても、さらにウランバートルはモンゴルのウランバートルではない。いつかそれは、民宿「ウランバートル」になっているのだ。だが、しかし、そこが避難できる場所であり、草原の中に雑然と出現している都市ウランバートルは、小説では、逆に都市の中の避難所のような草原に変わっているのだ。都市という茫漠とした砂漠の中でのオアシスのように逆転して設定されているのだ。

それぞれの短編は、冒頭の小説「キャンピングカーでウランバートルへ」に登場する「父」が吐く言葉、「つくられた時間の中で飼い馴らされずに飛び出した人間は、狂人ではない。彼らこそ遊牧民だ。」というように、制度として存在する時間から飛び出そうとする。しかし、それは犯罪を起こすことと犯罪に巻き込まれるということの現代の危機の中にある。都市は欲望によって形づくられる。そして、都市はその欲望の中で欲望する者と欲望されるものとの迷路のような構図によって描きだされている。時間から逸脱しようとする者は、逆に直に囚われてしまう。

 すべてが時間との闘いなのだ。人は誰しも時間の中に留まっており、
 時間の外に出る人のことなど誰も気にかけてくれない。また、時間の外
 に出ることを認めもしない。なぜなら、時間が作りだされる体制や制度
 自体が脅かされるので、時間の外に出ることは絶対に容認されないとい
 うのだ。だから人は法律を破ることはできても、時間の境界を抜けるこ
 とはしないのだそうだ。

と父は語る。そう、

 人は自ら進んで、自分たちがつくったものの奴隷になっているんだ。

と。そして、これから逸脱できる者こそが「遊牧民」だと語る。つまり、キャンピングカーに乗ってウランバートルへとなるのだ。小説は都市神話の構造で時間から逸脱できない者たちを描きだしながら、小説という行為で時間を超える。なぜなら、小説の時空は円環できるし、組み替えできるからだ。しかし、その小説の人物たちは、「体制や制度」から逸脱してしまい、その「体制や制度」を「脅かす」様相を示す。

「キャンピングカーでウランバートルへ」では、宝くじの当たりナンバーを取るために死んだ「父」の死体を暴く姉弟が描かれる。
「都市は何によってできているのか」は、家を出た「彼」が、望遠鏡で「パパ」を探す少女に出会う物語である。路上をよぎる「毛深い象」のイメージが鮮烈な印象を残す。
「キャンピングカーでウランバートルへ2」では、同名小説の主人公であった「僕」の孫が、小説を書く人物として主人公になっている。
「都市は何によってできているのか2」では、「パパ」を探す少女は、「男」によって不特定の「パパ」の欲望の相手になってしまう状況が設定される。そして、この小説で、キャンピングカーと、民宿「ウランバートル」が濃密につながる。
また、台風が象徴的に絡まってくる「論理についてー僕らは走る 奇妙な国へ7」。
これまで父と思ってきた人物が父ではなく小説家Cという別の父の存在を知った「女」の物語「妻の話―僕らは走る 奇妙な国へ4」。この小説のCは、他の小説に登場する小説を書く主人公ではないのかと連想することができるし、「論理について」の男の妻でないのかとも思ったりする。そして、小説に表れる言葉、

 見に見えるものだけが真実ではない。見に見えるからといって、それが
 すべて真実ではないのだ。女は男の言葉を思い浮かべた。男は女の父親
 の言葉だと言っていたけれど、女はそれが事実でないことを知っていた。

から、この女が冒頭の小説で死体を暴く姉と重なってくる。もちろん、そうだと規定されているわけではない。それを連想させ、重なってくるように仕掛けられているのだ。では、この言葉を告げた「男」は誰なのか。
それぞれの小説の創造力の豊かさだけではなく、小説が構成される快感にも浸ることができる一冊だった。

文体は、訳者あとがきによると「ユーモラスでスピード感のある文章」だということだ。それは十分に伝わってくる。ユーモラスで軽快で、展開力のある文で、都市の迷路を彷徨っていける。
この作家の他の小説も読みたくなった。

申京淑(シン・ギョンスク)他『いま、私たちの隣りに誰がいるのか』安宇植(アン・ウシク)訳(作品社)

2013-11-16 12:34:10 | 海外・小説
7篇の短編が収められている韓国現代小説アンソロジー。その中の2篇。

このアンソロジーの表題にもなっていて、日韓の地理的関係を考えるとなかなか意味深な題名の小説、「いま、私たちの隣りに誰がいるのか」。
発行所の「作品社」が紹介している「子をなくした夫婦の断絶と和解」という短文通りの小説である。短編にうねるようなストーリーはいらない。もしかしたら長編にだって不要な場合がある。この小説の面白さは、その予想通りの展開をどうしっとりと捉えるかだ。「なくした子」を幻視する。夫婦揃って、失った子に出会うことで再生を果たす二人を描きだす小説は、胸に迫る。ドラマでもそうだが、韓国の表現活動が示す抒情は、しなやかな強靱さを持っていて、持続性が強いように思う。その抒情性を滲ませながら、小説はすれ違い断絶している二人の気持ちが動いていく過程を描きだす。気配となって現れるなくした子ども。展開次第では、そのままスリラーかホラーになる設定だが、シン・ギョンスクはそれを困難を乗り越える契機にする。
解説で中沢けいが「予定調和」という言葉を遣っていたが、この小説には「予定調和」のもたらす沁みるような情感がある。どこぞの脚本家や小説家が書く「予定調和」という名の「ご都合主義」とは一線を画している。作者は1963年生まれで、『離れ部屋』(集英社)などの日本語訳もある、日本でも知られた韓国の小説家だ。

この小説の次に収録されている小説が、「嬉しや、救世主のおでましだ」。作者は河成蘭(ハ・ソンラン)、1967年生まれ。こちらは、読者を裏切る小説かもしれない。救世主は、どこにおでましするのだろうか? 祝福すべき誕生日の出来事が、その誕生日を破綻させ、クリスマスに破局が訪れる。乾いた抒情が、日常の中に潜む暴力の奇妙な軽さを伝えてくる。中沢けいも指摘しているが、シン・ギョンスクの小説の持つ「予定調和」にひっかき傷を入れる別のタイプの小説。その裂傷にしたたるものは何なのだろうか。現代が持っている欲望の暴力。その暴力に打ちのめされながらそれでも、生きていくということのなかに救済の可能性はあるのかもしれない。共犯性によって維持される仲間がいて、社会がある。小説はそんな共有された欲望社会を暴き出そうとしている。共犯社会では、共犯者同士がお互いの救世主になってしまうのかもしれない、常に被害者を生み出しながら。『6stories』という別の出版社から出ている「現代韓国女性作家短編」というアンソロジーがある。そこに、ハ・ソンランの別の小説が収録されている。その本の訳者は、あとがきでハ・ソンランの「現代的な暮らしの裏面に陰険にとぐろを巻いている下劣な欲望と身の毛のよだつ暴力の影」ということばを引きながら、彼女がそれを暴きたいとしていると書いている。このアンソロジーの訳者も同じアン・ウシクである。
面白いのは、この『6stories』に収録されているハ・ソンランの小説は「隣の家の女」という題名で、シン・キョンスクの小説の逆をいくように、隣りに女が住むことで破綻していく夫婦を描いている。その中で静かに壊れていく「わたし」が、「わたし」の独白で描かれているのだ。

シン・キョンスクとハ・ソンラン。展開と結末は当然真逆なぐらいに違っているが、どちらの小説も、一人称の立場に寄り添った語り口が、疎外を生みだしている。

ふー、久しぶりのブログだー。

李承雨(イ・スンウ)『真昼の視線』金順姫訳(岩波書店)

2013-05-02 12:43:23 | 海外・小説
このところ、コン・ジヨン、ハン・ガン、パク・ソンウォンと、韓国の小説家の小説を一作ずつ読んできたが、どれも面白くて、この小説も、その面白さの中に入る一冊。
作者イ・スンウは1959年、全羅南道生まれ。

「不在の父」を探して、「三十八度線から近い人口三万人の小さな都市であるこの町に真夜中に到着」する主人公の意識の旅は、リルケの『マルテの手記』からの引用で始まる。
「人々は生きるためにこの都会に集まってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」という『マルテの手記』の書き出しの文章を、二十九歳の大学院生である主人公ハン・ミョンジェは、「民間人の出入統制区域近く」の都市に行くバスの中で思い浮かべる。彼は、意識の奥に隠し込んでいた父を探しに旅に出る。そして、この書き出しを思い浮かべた彼もまた、「一体、僕はそこに生きるために行くのか、死ぬために行くのか」と考える。

小説は「僕」という一人称で書かれている。リルケ、カフカ、さらにオルハン・パムクなどの作品を織り込み、訳者が述べているように、ジョイスの「意識の流れ」の手法を用いながら、主人公「僕」の内面の旅を描きだしていく。それは、「不在の父」を意識の上で「いない」にしていた「僕」が、意識の下にいた「父」に気づく旅であり、その「父」を殺し、克服する旅である。「父殺し」のテーマが、存在をめぐる問題として探求される。

訳者も引いていたが、意識下の「父」に気づく場面が印象に残る。
結核にかかり、田園住宅に移り住んだ「僕」の近所に暮らす定年退職した大学教授が、主人公に「お父さんは?」とたずねる。それに対して、「僕」は「父はいない」と応える。元教授は「いつ亡くなられたんだね?」と聞く。「僕」は、「いないと言ったんで、亡くなったとは言っていないと笑いながら言い返」す。が、彼は、反論する。

  いないとは存在しないことで、近くにいようと遠くにいようと、いる
 のにいないというのは理屈に合わない。距離であれ関係であれ同じだが、
 近くにいてもいることで、遠くにいてもいることだ。特に、誰も否定で
 きずどんな場合にも否定できないものがあるが、父親とはまさしくそん
 な存在だろう。死なない限りはいないとは言えないのだ。どんな場合に
 でも、死んでも、死んだままで存在しているのが父親なんだ。

「僕」は、心に「何か得体の知れない不安な粒子が漂いながら内なる安らぎを攻撃してくるのを感じ」る。父の名前も知らない「僕」に、元教授は言う。

  存在しない者の名前は呼ばない。そんなことはない。なぜかというと
 初めからなかったものに名前はつけないから。名前を探しているとした
 ら、それは存在しないとは言えないだろう。こんなふうに考えてみなさ
 い。ある記憶は無意識の中に抑圧されて意識の表面から消え去る。消え
 去ったからといって存在しないことになるのだろうか。

そして、「僕」は父捜しの旅に出る。ここで、さらに元教授は語る。

  人間は根本的に何かを探して追求する存在なのだ。時には自分が何を
 探しているのかも分からないままに探し追求するものだ。夢遊病者のよ
 うに。探しても探せなくなったとしてもその追求は無意味ではない。

名指されないままのものの名前を求めること。それが、ある不安と抑圧を与えることにおいて、訳者が解説で書くように「父」はあらゆる権威、権力のメタファーになる。だが、同時に克服と解放への問いが求められる。

このあと、もちろん「僕」は、すぐに「父」に出会えたりはしない。小説中にもカフカに関する部分があるように、一方でカフカ的世界(?)を読者に示しながら、筋は筋で展開する。そこには、行為の逡巡や暴力性の介在などが描かれていく。そして、後半、小説は「愛」の問題を追いかけていく。
父と子の関係において、

  愛は父の権利であったり義務だ。愛さない父は自分の権利を使わなか
 ったり義務を遂行したりしない。しかし、息子たちには愛したり愛さな
 かったりする権利も義務もない。愛する父であれ、愛さない父であれ違
 うところがない。彼はただ父であるだけだ。息子たちはただ父である存
 在を探しているだけだ。あるときは愛をもって追求し、あるときは愛な
 しに追求する。愛がある無しにかかわらず追求する者が息子だ。

ここに権力の構図が示される。しかし、その力に対して「追求」するという行為も示されているのだ。例えば、「父性」の喪失がいわれてきた。しかし、「父」をメタファーと考えれば、「父性」としてだけではなく、小説の表題のように、権力の構図は、一切の「視線」に宿る可能性がある。であれば、それは無意識を貫いて、さらされるべき「真昼の視線」なのだ。ただ、一方、この小説名の「真昼」という言葉には光の射してくる光の中の視線、光をもたらす「真昼の視線」という含意もあるように思う。

思索に裏打ちされた様々な言葉に惹かれながら、読み終えることができた。そして、最後に「作者の言葉」に出会う。

  しかし、角を曲がると出くわすようなわけのわからない存在、出くわ
 すことを願っているのか願っていないのかもはっきりしない、超越であ
 り内在しているもの、未知の大きい視線とかなり親しくなったようだ。
 幸いなことだ。

これは、作者自身がこの小説を書いている間の心の状況を示している。そして、読者は、この小説を読みながら、角を曲がり、どこかで、何かに、出くわす。きっと、それは幸いなことなのだ。



ハン・ガン(韓江)『菜食主義者』きむ ふな訳(クオン「新しい韓国の文学01」)

2013-03-23 01:06:41 | 海外・小説
圧倒された。
この一冊は「菜食主義者」、「蒙古斑」、「木の花火」という視点を変えた、三つの連作中編小説集であり、同時に全体を通した長編小説ともいえる本である。

「菜食主義者」は、妻が突然、菜食主義になり、そのことで浮き彫りになっていく夫婦や家族の関係を描いていく。視点は、夫の視点であり、夫を「私」と置いた一人称小説である。ただ、間違ってはいけないのは、ただ単に菜食主義者になるというだけではない、この妻、ヨンヘは、菜食を求めるだけではなく、植物になることを求めていく。彼女は、自身の中の動物性、そして食物連鎖の頂点としての人間の在り方自体に激しい嫌悪と恐怖を感じ、それが妻のこれまでの家族関係や夫婦関係の中でより先鋭化されていく。彼女の存在は、要請や強制を拒絶する。そして、自分自身への同一性を崩壊させていく。彼女が植物との一体性を求めれば求めるほど、彼女は社会から逸脱していく。夫にとって、彼女は見知らぬ誰かになっていってしまう。

「蒙古斑」は、その「菜食主義者」のあとを継いでいく。ヨンヘの姉の夫が、「彼」という人称で語りの中心になる。「彼」は妻の妹つまり義妹のヨンヘに蒙古斑が残っていることを知り、激しい欲望を感じる。ビデオアート作家である彼は、体に植物のペインティングをしたヨンヘのイメージに取り憑かれ、一線を越えていく。存在原理の中に核のようにある欲望が、常に暴力と密接な関係にあり、暴力が存在を存在たらしめようとすると同時に他者の存在を剥奪していく、または自らの存在を奪い去っていく状況が激しく強く表現される。救いの設定は剥奪されている。越える際で越えられない悲劇が表現される。楽園は存在の側では訪れないのだ。植物をめざし、鳥になろうとしても人は、ついに足をつかまれてしまう。楽園は、存在の消失によってしか現れないのだろうか。

そして、「木の花火」。この小説は、今度はヨンヘの姉を「彼女」にして、彼女の視点で綴られる。彼女はヨンヘとの狂気の行為に走った夫との関係を静かに問い直す。また、ヨンヘの欲望を懸命に理解しようと努める。「時間は流れる」「時間は止まらない」という言葉が、章が変わるごとに置かれる。ヨンヘと姉である「彼女」の理解と再生に向けた時間は、現実的な時の流れの中で遠ざけられていく。精神病院の中で狂気と死に向かっていくヨンヘ。完全にではなく、ただ、わずかだけ解読されるように、現代人がどこにいるのかが提示されていく。
凄絶な小説。そして圧倒された。こわいけど。

カフカは『変身』で、すでに虫に変わってしまった主人公の、日常の関係に潜む不可解を描いた。そこには寓話性の持つ多様な読みの可能性がある。同時に、それは確定される唯一の読みの不可能性を示す。虫にではないが、この『菜食主義者』は、植物になれない人間の、植物になろうとする過程の困難を描きだして、存在の抱え込む背離するものを描きだそうとしている。それは、社会と激しく摩擦する。そして、ここには裸形の存在の持つ境界の危うさがある。だが、それは、境界の前でおののき立ち止まりはしない。越境の危険とどこかしら獲得されようとする存在を差しだしてくる。小説の創造力は、その逸脱に向けて賭けられている。

訳者のきむふなは「訳者あとがき」で、「ハン・ガン(韓江)、ソウルを二つに分けて流れる大河、漢江(ハンガン)のように、彼女の作品がますます深く滔々とした流れをなすことを願う。」と締めている。そう、かなり、気になる作家である。そして、冬の氷結した漢江のように、その氷の上を渡るような危険な越境に魅力を感じた。

孔枝泳(コン・ジヨン)『私たちの幸せな時間』蓮池薫訳(新潮社)

2013-03-01 12:07:32 | 海外・小説
痛く、重い小説である。読みすすめながら、心に澱のようなものが溜まってくる。ざわざわとしたものが残っていく。しかし、ある部分から、何かふわりとした感覚が現れ、少しずつ、光に包まれていくように、ほんのりと体温と同じような温かさを持った日ざしに包まれていく。だからといって、慰撫されて、すべてが解消されるわけではない。読後に、救われたという優しい気持ちと同時に、この小説を読み進めるうちに溜まっていたものの消し去ることのできない重さが残る。その問題の深さと、それでも小説が与える爽快な読後感が、この小説を魅力的なものにしている。

小説はムン・ユジョンの一人称の部分に、「ブルーノート」というチョン・ユンスのノートが差し挟まれる構成で進む。
ムン・ユジョンは、裕福な家庭に生まれた30歳になる女性だが、16歳の時の出来事が心の傷になり、人を信じられなくなって三度の自殺を試みる。その三度目の自殺未遂の後、叔母のシスター、モニカが拘置所の慰問に彼女を連れていく。そこで、死刑囚ユンスと出会う。彼は、仲間と共に知り合いの女性を殺し、その17歳の娘を強姦殺人し、さらにその家の家政婦までも殺した男だった。
「ブルーノート」の章で、ユンスの家庭環境や犯行に至るまでが解き明かされていく。それは、読者にひとりの人間が、犯罪に至るまでに、その人間の過ごした、過ごすしかなかった時間があったことを告げる。
モニカ叔母とユジョンに心を閉ざすユンス。一方、凶悪な死刑囚としてしか見ないユジョン。だが、ユジョンはユンスの中に自分の顔を見る。それは、同時に、ユンスの顔を見つめようとする心の動きにつながっていく。また、ユンスは、ユジョンの心の傷に気づく。そして、ユジョンの顔を見つめることで、自分の心と対話を始める。
死刑囚にとっては、二人が出会う木曜日が、また来週もやってくる木曜日とは約束されていない。刑の執行は唐突に知らされる。その出会う一回が最後の一回になるかもしれない。そんな中で、二人は、その一回ごとのかけがえのなさを。優しく幸せな時間に変えていこうとする。

小説は、人間の更正力の是認、人が法的にも人を殺すという行為の根本的な罪と矛盾、拘留経費と人の命を天秤にかける虚偽、暴力は暴力しか生まないという負の連鎖の指摘、人が人を許す機会を奪うことの過誤などを拠点にして、死刑制度を問うている。もちろん、被害者感情はある。そして、現在、死刑を求めて犯罪を起こす犯行までが存在する。だからこそ、死刑制度は犯罪の抑止としても無効ではないかという意見もある。一方、だからこそ、そんな犯罪者までも生かす必要はない、さらに死刑制度は必要なのだという考えもある。どうなのだろう。小説は、死刑制度についても考える機会を与えてくれる。

だが、訳者蓮池薫が、「あとがき」で、この小説が「多くの共感を得ているのは、著者がこの小説を通じて、単に死刑制度のことだけでなく、読者個々人にもっと身近な、人間存在の根源に迫る問題をも投げかけ、考えさせているからだといえる。つまり、他者への『愛』、そしてその反義語である他者への『無関心』についてである。」と書いている。死刑制度を「単に」としていいものかは、訳者ももちろんわかっているが、この小説が、胸に迫ってくるのは、まさに、この他者への眼差しなのである。

  なぜなら、以前に叔母が悲しい口調で私に忠告したように、悟るには
 痛みが伴い、他人であろうが自分であろうが、その痛みを感じるには相
 手を眺め、その思いを知り、理解しなければならないからだ。
  そう考えると、悟ろうとする人生は、相手に対する憐れみなしには存
 在しないことになる。憐れみは理解なくしては存在しないし、理解は関
 心なくしては存在しない。愛情とはつまり関心なのだ。

 「わからない」という言葉は、免罪の言葉でも何でもなく、愛情の反義語
 だ。また、正義の反義語、憐れみの反義語、理解の反義語、人間がお互
 い持ち合わせなければならない、本当の意味での連帯感の反義語なのか
 もしれない。

レヴィナスの「他者の顔」も連想する。また、民主化を支えた386世代の作者の思いと思考の強靱さを感じる。
そして、「生きる」ということへの信頼とそれを人間の使命だと考える思考も、全体を支えている。叔母はユジョンに告げる。

  「……だから私たちは、死にたいと言う代わりに、もっとちゃんと生
 きたい、と言わなければならないの。死について話してはならない理由
 は、まさに生命という言葉の意味が、生きろという命令だから……」

ユジョンは、ここでは、まだ、こう問い返そうとする。

  生きろという命令だって?誰の命令なの?一体誰が、何様だと思って
 そんなことを言うの!

しかし、死刑囚、すでに生を期限付きでしか与えられていない死刑囚ユンスとの交流の中から、ユジョンは気づく。

  死にたいと考えたりすることがほかならぬ生きている証であり、生き
 ている者にだけ許される人生の一部分だということだ。だから、もう死
 にたいという言葉の代わりに、私はしっかり生きたい、という言葉を使
 いたい。

小説の背景には、多くの思索がある。それが、読者を説得していく力になっている。先程も書いたが、暴力の連鎖もそうである。より重い重力こそが「恩寵」に向かうという思索もある。偽悪と偽善をめぐる問いもある。そして、何よりも、死を超えるものへの、傲慢ではなく、かといって控えめでもなく、直裁でありながら慎ましい、切々とした希求が、この小説を支えている。

文章の特徴なのだろうか、比喩が多く、その比喩に慣れると、どのような喩えが遣われているのかが楽しみになる。例えば、痛切な、

  鋭いナイフで切り刻まれるように胸が痛む。あれほどひび割れし、乾
 ききっていた私の胸の片隅で、永い間凝固していた血が涙に変わって目
 からこぼれ出た。

とか、

  気持のなかでは、そんな欲望がさながらコンクリートの隙間から顔を
 出す野花のように湧き出てくるのを感じていた。

とか。
ああ、抜き出したらきりがない。そうだ、韓国は詩の国なのだと思う。そして、修辞を大切にしている国なのだ。

蓮池薫の訳は、妙な文学臭さがなく、それでいて、言葉のイメージがよく伝わってくる。言い回しに無理がなく、文章がよく届いてくると思った。

小説は、映画やコミックの原作にもなっている。

小説を読んでいる間も何度かそうであったが、作者のあとがきである「作者の言葉」を読んで、涙が出てしまった。