名前のせいで読むのを避けていた作家である。何だか、勝手にバタイユの息子と思いこんでしまって。さらに、別に息子だったとしても読まない理由にはならないのに。
まず、クリストフ・バタイユにごめんなさい。意固地な偏見はよくない。さらにわけわかんないのは、ボクが別にジョルジュ・バタイユが嫌いだというわけではないことで、こうなると、自分でも理解不能。ただ読まなかっただけということなのだ。
小説は、ルイ16世統治下、ヴェトナムに派遣された軍隊と修道士の物語である。次々に死が襲い、結局、目的は失敗に終わる。その中で、他の修道士たちと別れ、安南へ向かうカトリーヌ修道女とドミニク修道士の話が小説後半からラストまでを支える。
この小説、どうしても描写について考えさせられてしまう。もちろん翻訳なのだが、短い文章の連続なのだ。連続というより、行間まで含めているような簡潔さ。例えば、数行余白の間に「数ヶ月が経ち、そして、数カ年が経った。」という一行が置かれている。両脇の余白に挟まれて、時間がふっと経っているのがわかるのだ。もう少し、うがった言い方をすれば、経っていない時間も含めて、そこにある感じなのだ。
ヴェトナムの時間を「永遠」と書いている箇所が数カ所あり、それが、アジアの時間とヨーロッパの時間、変転と悠久、を対比させる。ほとんど一文で表されたような気にさせるフランス革命当時の時代の流れ。これは書かれた文章が簡潔であればあるほど、時間の激変を感じさせる。その背景の急転の前で、動かない時が修道士たちを包み込んでいる。激流に忘れられながら、自らの拠って立つ価値も忘却していく。しかし、修道士たちはむしろ「天と地と精霊とに導かれ」て「宇宙との調和」を果たす場所に存在する。「からだ」が「真実」であると実感できる場所の発見。そのために、彼らはヴェトナムという他者異質性に出会わなければならなかったのだ。
それはキリスト教的には楽園追放なのかもしれない。暑さと湿度の中、死のある場所のインドシナ。しかし、そこは永遠の時間が自然に宿る楽園でもあったのだ。ヨーロッパ社会から忘れられた修道士たちは、かれら自身がキリスト教的世界を忘れていくことで、異質性を同質化する。そこに、この小説が持つ詩が溢れ出す。美辞麗句、過剰絢爛たる描写の構築物といった小説もあるだろうが、それと真逆に、そぎ落とされたこの小説には、読者を惹きつける想像力の強さがある。そして、ヨーロッパにとってのアジアのイメージを思ったり、一神教的なものの汎神的な世界への滑落が逆に世界との一体化を果たすという開かれの呈示を読み取ったり、革命当時の王権の崩壊が父性と神性にどのような影響を与えたかへのアプローチがあるのではと勝手に思いこんだりさせてくれる小説であった。
「世界は空っぽの貝殻なのだった」と意味を失いながら、受け入れた世界は、棚田を「天の鏡」と語る老人に出会う世界だったのだ。クリストフ・バタイユにとって、ヴェトナムは美しいのだ。
まず、クリストフ・バタイユにごめんなさい。意固地な偏見はよくない。さらにわけわかんないのは、ボクが別にジョルジュ・バタイユが嫌いだというわけではないことで、こうなると、自分でも理解不能。ただ読まなかっただけということなのだ。
小説は、ルイ16世統治下、ヴェトナムに派遣された軍隊と修道士の物語である。次々に死が襲い、結局、目的は失敗に終わる。その中で、他の修道士たちと別れ、安南へ向かうカトリーヌ修道女とドミニク修道士の話が小説後半からラストまでを支える。
この小説、どうしても描写について考えさせられてしまう。もちろん翻訳なのだが、短い文章の連続なのだ。連続というより、行間まで含めているような簡潔さ。例えば、数行余白の間に「数ヶ月が経ち、そして、数カ年が経った。」という一行が置かれている。両脇の余白に挟まれて、時間がふっと経っているのがわかるのだ。もう少し、うがった言い方をすれば、経っていない時間も含めて、そこにある感じなのだ。
ヴェトナムの時間を「永遠」と書いている箇所が数カ所あり、それが、アジアの時間とヨーロッパの時間、変転と悠久、を対比させる。ほとんど一文で表されたような気にさせるフランス革命当時の時代の流れ。これは書かれた文章が簡潔であればあるほど、時間の激変を感じさせる。その背景の急転の前で、動かない時が修道士たちを包み込んでいる。激流に忘れられながら、自らの拠って立つ価値も忘却していく。しかし、修道士たちはむしろ「天と地と精霊とに導かれ」て「宇宙との調和」を果たす場所に存在する。「からだ」が「真実」であると実感できる場所の発見。そのために、彼らはヴェトナムという他者異質性に出会わなければならなかったのだ。
それはキリスト教的には楽園追放なのかもしれない。暑さと湿度の中、死のある場所のインドシナ。しかし、そこは永遠の時間が自然に宿る楽園でもあったのだ。ヨーロッパ社会から忘れられた修道士たちは、かれら自身がキリスト教的世界を忘れていくことで、異質性を同質化する。そこに、この小説が持つ詩が溢れ出す。美辞麗句、過剰絢爛たる描写の構築物といった小説もあるだろうが、それと真逆に、そぎ落とされたこの小説には、読者を惹きつける想像力の強さがある。そして、ヨーロッパにとってのアジアのイメージを思ったり、一神教的なものの汎神的な世界への滑落が逆に世界との一体化を果たすという開かれの呈示を読み取ったり、革命当時の王権の崩壊が父性と神性にどのような影響を与えたかへのアプローチがあるのではと勝手に思いこんだりさせてくれる小説であった。
「世界は空っぽの貝殻なのだった」と意味を失いながら、受け入れた世界は、棚田を「天の鏡」と語る老人に出会う世界だったのだ。クリストフ・バタイユにとって、ヴェトナムは美しいのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます