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良寛と鈴木文臺・長善館が信濃川と越後平野を光らせた

2022年08月14日 | まち歩き
またまた長善館。良寛も長善館の門下生も、大河津分水に深くかかわりを持っていたというのは前回触れたとおりなのだが、良寛(1758-1831年)と高橋竹之介(1842-1909年)ではいささか年代が違い過ぎる。だが、意外なところに接点があった。
長善館の初代館長の鈴木文臺(ぶんたい)は、1796年、燕市(旧吉田町)粟生津の医師の次男として生まれる。幼少のころから父から漢文・漢詩を教えられ素読していていたという。とにかく勉強家で優秀な子どもだったそうだ。
14歳になった時に近くの庄屋・解良(けら)家でさらに勉学に励み、しばらくして指導する立場となり論語などの講義をしていたところ、近隣を回っていた良寛の目に留まったそうだ。良寛58歳、文臺18歳の頃。それ以来良寛との交流も深くなったという。(写真下:長善館史料館と外観と、館内展示の鈴木文臺はじめ歴代の館主・先生を紹介したパネル。)



良寛は、文臺に学問を習得するため東京に行くことを勧め、解良家の経済的な支援も得たことにより上京(この時はまだ文化12年だから上京とはいわない?江戸に行く?)。亀田鵬斎の講義を受けることになるが、その後ほとんどは独学で勉学に励んだそうだ。
22歳で帰省し、いわゆる寺子屋での講義をほうぼうから頼まれ教えるかたわら、たくさんの書物を読み学問の幅を広げるとともに、漢文の翻訳や解説書づくりなどもしていた。
そして1833年、38歳の時に「長善館」を開設。その教育方針は「人の長所を伸ばし、短所を補う」というもの。文臺は門下生の個性を伸ばす教育を実践していたようだ。現代ではなかなかそういう教育は実践されてないように思えるが、理想は一緒なんだよね。(写真下:多くの著名人を輩出したことを紹介するパネル。大河津分水の実現に大きく貢献した人が多い。)



この教育方針だが、「決して多くを望まず、強く説法するのではなく、その生活は質素で、利他の心をもって人々の気持ちに寄り添う」、正に良寛の姿が、鈴木文臺に大きな影響を与えたのではないか?平日のただ一人の入館者(私)に、長善館の受付の女性が熱心に話してくれる。
その精神は、鈴木家3代4人の先生に渡って受け継がれて、「北越治水策」の高橋竹之介をはじめ多くの優秀な門下生を世に輩出した。国会議員が7人も。その中で、大竹貫一、萩野左門、小柳卯三郎などは大河津分水の実現に大きく貢献したほか、新潟県内の治水事業にも力を入れたという。
つまり、良寛にはじまり、交流のあった鈴木文臺が長善館を開設しその長善館の門下生の高橋竹之介や大竹寛一により大河津分水が実現、そして越後平野は一大穀倉地帯となり、新潟県を豊かにした。なぜか、「豊かな流れの信濃は光り~」って歌を思い出す。知らない人の方が多くなっていますかね?(写真下:展示物には、関屋分水や加治川放水路なども記載された高橋竹之介の「北越治水策」が。一番奥には、良寛と鈴木文臺の像もある。)



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