ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

渋沢栄一 追悼の和歌

2010年08月31日 07時32分14秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 追悼の和歌

1931(昭和6)年、栄一が死去した後、短歌誌「あららぎ」に次のような一首が寄せられた。

資本主義を罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ

この年、日本は満州事変を起こし、中国との泥沼戦争に突入した。東北地方は大凶作で、プロレタリア運動も高まりを見せていた。こういう背景を知ると、この歌の真意がよく分かる。

「日本資本主義の父」として栄一の業績はあまりにも大きい。巨人としか呼びようがない。92年間の人生で、500以上の会社を興し、600余の社会事業に関係した。谷中墓地の葬儀には三万人の参列者があった。

会社では、第一国立銀行(現・みずほ銀行)を皮切りに、東京証券取引所、東京ガス、王子製紙、帝国ホテル、帝国劇場(現・東宝)、日本郵船、日本鉄道(JR東日本の前身)、石川島造船所(IHIの前身)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、秩父鉄道、大阪紡績(東洋紡)、東京海上日動火災保険、アサヒビール、清水建設・・・など、文字どおり枚挙にいとまがない
一つの会社の経営さえ大変なのに、栄一は「日本社会福祉事業の草分け」でもあった。1874(明治7)年、当時の東京市から養育院の委嘱を受けたのを手始めに、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、聖路加国際病院初代理事長など、関係した非営利の社会事業もまた数えきれないほどだ。

名誉職で務めたのではない。死ぬまで院長を続けた養育院を引き受けたのは、35歳の時だった。

養育院は、親も親戚もない不幸な少年少女や、身寄りのない老人を養う施設である。栄一は毎月、菓子を持って院を訪ね、この施設の元々の基金を作った寛政の老中松平定信の命日には毎年、話をしに出かけた。これを死ぬまで56年余続けたのである。

栄一の母親は慈悲深い人で、郷里の共同浴場に癩患者の女性が入ってきた時、入浴者は気味悪がって逃げ出したのに、一緒に入浴して、背中まで流してやった逸話が残っている。死去する年に癩予防協会会頭を引き受けたのも、この話に関係がありそうだ。

栄一が生涯の信条にしたのは、論語にある「忠恕」、つまりまごころと思いやりの心だった。この信念と母親の遺伝子が栄一を社会福祉への道へ進ませたのだろう
当時、商人に社会教育は要らないと考えられていたのに、栄一は商業教育の必要を唱え、一橋大学や東京経済大学の設立に協力した。国学院大學や東大新聞研究所、理化学研究所にも関与した。

不要視されていた女子高等教育にも力を入れ、日本女子大学や東京女学館の設立にも携わった。

栄一は、70歳で大半の営利事業の役職、77歳で第一銀行頭取などを辞し、実業界から引退した後も、養育院などの社会事業は続けた。「財なき財閥」と呼ばれるゆえんである。

明治の文豪幸田露伴は栄一を「時代の児」と呼んだ。栄一が自称していた「血洗島の農夫」は、幕末から昭和初めにかけての日本の激動の時代にもまれ、まさしく「時代の児」として生きた。

参考文献
「評伝 渋沢栄一」藤井賢三郎 水曜社
「澁澤栄一」山口平八 埼玉県立文化会館


最新の画像もっと見る

コメントを投稿