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清水かつら 和光市

2011年06月15日 10時42分22秒 | 文化・美術・文学・音楽
清水かつら 和光市

「清水かつら」と言われても、すぐにピンとくる人は多くあるまい。ところが、池袋が起点の東武東上線に乗り、成増駅と和光市駅に降り立つと、時間がうまく会えば、時計塔から子供の頃、聞いたり、歌ったりした懐かしい童謡のいくつかが響いてくる。歌詞を刻んだ歌碑もある。(写真は和光市駅前)

そう、「靴が鳴る」「叱られて」「雀の学校」「緑のそよ風」などの作詞家なのだ。

埼玉県の有名人には、大正大震災や第二次大戦の空襲で東京から避難して、住みついた人が多い。清水かつらもその一人で大震災の疎開族だ。病没する1951(昭和26)年まで住んだ。女性みたいな名前ながら、本名は「桂」と書くれっきとした男性。

童謡詩人のイメージとは裏腹に、仲間で太刀打ちできるものはないほどの酒好きで、「酒が飲めなくなったら終わりだ」とつぶやいて53歳で永眠した。脳溢血だった。3千編余の詩を残した。幼児時代のしつけで礼儀正しいダンディ。酒を飲む時も正座していたと伝えられる。

日本の童謡の全盛期は大正時代だった。「靴が鳴る」(弘田龍太郎作曲)は大正8(1919)年、「叱られて」(同)は9年、「雀の学校」(同)は11年、いずれも務めていた雑誌「少女号」(小学新報社)に発表された。

その編集長は、鹿島鳴秋で、その招きで入社したのだった。有名な唱歌「浜千鳥」(弘田龍太郎作曲)の作詞家だ。この人も埼玉県に関係のある人で、この詩ができた大正8年頃、桂と同じ東京都深川生まれの鳴秋(本名・佐太郎)は、妻と娘の三人で当時の浦和市(さいたま市)に家を新築して住んでいた。

「浜千鳥」は、「少女号」大正9年1月号に掲載。弘田龍太郎が曲をつけたのが、大正12年でレコードも発売された。

全国に知られたのは、昭和7年(1932年)、「蝶々夫人」のプリマドンナとして世界で活躍していた三浦環(たまき)がレコード化してからだった。

成増駅前の時計塔からは、かつらの歌とともにこの「浜千鳥」も流れる。「浜千鳥」のことは、このシリーズで前にも書いた。成増駅は、東京都側だが、かつらが通勤に使った駅である。

一度訪ねてみたいと思っていたが、11年の梅雨の合間に和光市のかつらゆかりの土地を訪ねた。

東京都との境界にあるこの市の東上線沿いは、急な阪が実に多いところだ。

成増駅に近い白子川は、第二次大戦後の1948(昭和23)年、よく知られる「緑のそよ風」(草川信作曲)ができた川として知られる。この歌はNHKラジオの日本のメロディーで放送されて、人気を呼んだ。

この川沿いには、住んでいた所なので、かつらにちなんだものが多い。遊歩道の一角には「生誕100年碑」、高台の白子小学校には「緑のそよ風」の歌碑、白子橋の親柱には「靴が鳴る」の歌詞が刻まれている。

この「靴が鳴る」は、戦前に米国の往年の名子役シャーリー・テンプルが歌ってヒット、進駐軍の将校が訪ねてきたことがあるという話を、今度初めて知った。

かつらが和光市に来たのは、二番目の母の里が現在の新倉にあったからだで、後に白子に移った。

現在の白子川は、お決まりの護岸工事で、「緑のそよ風」の歌詞にある

小川のふなつり うきが浮く
静かなさざなみ はね上げて
きらきら金ぶな 嬉しいな

のような風情はもちろん失われている。

「叱られて」の中に

あの子は町までお使いに・・・

という句がある。町は成増のことのようだが、「何を買い物に行ったのだろう」と、かねて疑問に思っていた。研究者によると、「ふすま(小麦の皮)」だという。今はダイエットに使われているようだが、昔は洗い粉に用いられていた。


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1 コメント

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Unknown (鈴木邦夫)
2019-11-07 01:45:27
清水かつらが他界したのは昭和26年ですよ。白子に最初に住み着いたのが、今だと寿司金という場所の近所。池がある家に住みたかったから。実際に池がありよく眺めていたみたいです。その後白子橋から成増に向けて三軒目ほどにあった一軒家に引っ越しして、その家で最期を迎えました。いつも横向きに机に向かい、何か物書きをしていたと母が言ってました。
白子橋にとても近い床屋に住む金髪ロン毛より。
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