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清水かつら 和光市
「清水かつら」と言われても、すぐにピンとくる人は多くあるまい。ところが、池袋が起点の東武東上線に乗り、成増駅と和光市駅に降り立つと、時間がうまく会えば、時計塔から子供の頃、聞いたり、歌ったりした懐かしい童謡のいくつかが響いてくる。歌詞を刻んだ歌碑もある。(写真は和光市駅前)
そう、「靴が鳴る」「叱られて」「雀の学校」「緑のそよ風」などの作詞家なのだ。
埼玉県の有名人には、大正大震災や第二次大戦の空襲で東京から避難して、住みついた人が多い。清水かつらもその一人で大震災の疎開族だ。病没する1951(昭和26)年まで住んだ。女性みたいな名前ながら、本名は「桂」と書くれっきとした男性。
童謡詩人のイメージとは裏腹に、仲間で太刀打ちできるものはないほどの酒好きで、「酒が飲めなくなったら終わりだ」とつぶやいて53歳で永眠した。脳溢血だった。3千編余の詩を残した。幼児時代のしつけで礼儀正しいダンディ。酒を飲む時も正座していたと伝えられる。
日本の童謡の全盛期は大正時代だった。「靴が鳴る」(弘田龍太郎作曲)は大正8(1919)年、「叱られて」(同)は9年、「雀の学校」(同)は11年、いずれも務めていた雑誌「少女号」(小学新報社)に発表された。
その編集長は、鹿島鳴秋で、その招きで入社したのだった。有名な唱歌「浜千鳥」(弘田龍太郎作曲)の作詞家だ。この人も埼玉県に関係のある人で、この詩ができた大正8年頃、桂と同じ東京都深川生まれの鳴秋(本名・佐太郎)は、妻と娘の三人で当時の浦和市(さいたま市)に家を新築して住んでいた。
「浜千鳥」は、「少女号」大正9年1月号に掲載。弘田龍太郎が曲をつけたのが、大正12年でレコードも発売された。
全国に知られたのは、昭和7年(1932年)、「蝶々夫人」のプリマドンナとして世界で活躍していた三浦環(たまき)がレコード化してからだった。
成増駅前の時計塔からは、かつらの歌とともにこの「浜千鳥」も流れる。「浜千鳥」のことは、このシリーズで前にも書いた。成増駅は、東京都側だが、かつらが通勤に使った駅である。
一度訪ねてみたいと思っていたが、11年の梅雨の合間に和光市のかつらゆかりの土地を訪ねた。
東京都との境界にあるこの市の東上線沿いは、急な阪が実に多いところだ。
成増駅に近い白子川は、第二次大戦後の1948(昭和23)年、よく知られる「緑のそよ風」(草川信作曲)ができた川として知られる。この歌はNHKラジオの日本のメロディーで放送されて、人気を呼んだ。
この川沿いには、住んでいた所なので、かつらにちなんだものが多い。遊歩道の一角には「生誕100年碑」、高台の白子小学校には「緑のそよ風」の歌碑、白子橋の親柱には「靴が鳴る」の歌詞が刻まれている。
この「靴が鳴る」は、戦前に米国の往年の名子役シャーリー・テンプルが歌ってヒット、進駐軍の将校が訪ねてきたことがあるという話を、今度初めて知った。
かつらが和光市に来たのは、二番目の母の里が現在の新倉にあったからだで、後に白子に移った。
現在の白子川は、お決まりの護岸工事で、「緑のそよ風」の歌詞にある
小川のふなつり うきが浮く
静かなさざなみ はね上げて
きらきら金ぶな 嬉しいな
のような風情はもちろん失われている。
「叱られて」の中に
あの子は町までお使いに・・・
という句がある。町は成増のことのようだが、「何を買い物に行ったのだろう」と、かねて疑問に思っていた。研究者によると、「ふすま(小麦の皮)」だという。今はダイエットに使われているようだが、昔は洗い粉に用いられていた。
白子橋にとても近い床屋に住む金髪ロン毛より。